看護の日である。
フローレンス・ナイチンゲールの誕生日をそれにあてた。
フローレンス自身、
看護の実体験は短期間であったのだが、
むしろそこから得た思いを、
看護全体の改善に向けて尽力したことが
評価されていると言える。
 
研究熱心であり、
統計学という、難解な手法で
人命を守る方策を考案していった。
すばらしい働きであったことは間違いない。
 
先日8日は、
アンリ・デュナンの誕生日であることから、
国際赤十字デーとされていた。
こちらはもっと地味な扱いとなっているが、
ひとつには、「十字」が特にイスラム圏では
別の形にしなければ、といった事情もあるだろう。
もちろん、同じ主旨の働きは続けられている。
 
しかし看護ということは、
万国共通に受け容れられるはずのものだろうし、
衛生に関する知識は当然必要なこととされている。
 
気になるのは、
看護師になりたいという女の子が減っていること。
これは統計上、はっきりと減っている。
依然上位にあるものなのだが、
それは子どもにとり身近な存在のひとつである故だ。
激減しているのは確かだ。
 
そういうこともあり、
外国からの看護師を養成する仕組みもできるようになった。
難解な医学用語を課す試験に意見が出されていたが、
当の留学生も、
合格しつつも日本にとどまらない例が多く現れた。
そのための援助をした日本側の地域の負担が無駄にもなる。
 
看護ばかりでなく、
介護というあり方で必要も迫られている。
職がないよりはましだ、として
それを希望する人もいる。
だが、労の割には賃金が低いとも言われている。
つまりは、やりたいという人がさほどは増えない。
単に日銭のためにやるとなれば、
事故や不都合も多くなる危険性が懸念される。
長距離バスだけの話ではない。
 
目の前の人を助ける、という、
どこか本能的な精神が薄れている側面もある。
ケータイやスマホで、
チャットやツィッターで、
離れた人とはつながっていたい。
歩きながらでも、自転車走らせながらでも、
そしてまた車の運転をしながらでも。
だが、目の前の人にぶつかっても、なんとも思わない。
「ぶつからないよ、大丈夫」などと嘯く。
 
端から見て、スマホで歩く人が
どんなに不安定で迷惑なものか、
分からないのは本人だけだ。
これは飲酒運転の構図に似ている。
そして、亀岡の少年による事故とも、同じようなものだ。
 
話が逸れた。
看護の背後に、
目の前の人を大切にする気持ちがある、と
捉えてみたかった。