震災に関して、アメリカが
「トモダチ作戦」を展開してくれた。
いや、今もなお続けている。
ありがたいことだ。
 
ことさらに援助や文化に
金を出すのが当然と考える国柄では、
これもまたあたりまえだとお思いかもしれないが、
必要な支えになっているのは確かだし、
その精神が聖書あたりに由来すると思うと、
信仰の一つの生きた姿を見るようで、
うれしくもあり、また、我が身を振り返らせられる。
 
ところでこの「トモダチ」は日本語である。
アメリカの粋なはからいでもあるだろうが、
英語の学習で日本語訳を考えるときにいつも迷うのを思い出した。
一人を指すとき、それは、a friend (of mine) である。
(私の)友だち、と訳すのが普通だが、私は抵抗がある。
「友だち」とは複数のように聞こえないか、と。
 
そこで「友人」と訳すのだが、
なんだかよそよそしい感じがしてならないのである。
「とも」という和語が入るほうが馴染むのかもしれない。
「友人」というのは、音読みのせいも加わり、
距離があるような気がしてならない。
 
「友だち」は一人をも指す言葉だと思う。
しかし、「達」という複数形の語尾を伴う。
つまり、私たちにとり、「友」はつねに複数でもあるのだ。
これは、個人的な関係に基づくものではあるまい。
集団的、共同的なあり方の中での位置づけだと言えないだろうか。
個人的な結びつきというよりも、
いつでも仲間としてのあり方が優先されているが故の。
 
イエスは、人間からすれば友である。
しかし、個人的な友という関係に疎い日本の風土では、
この神との個人的な関わり、結びつき、
そして神との個人的な契約という概念が、
根底から抜けているような気がしてくる。
 
新たな社会の中で、
個が孤となっている問題がある。
これの解決こそ、
キリスト教が関わってよいことなのではないか、とも思う。