5人の夫というのは、モーセ五書のことか、と。
かつてモーセ五書を、つまり同じ律法を知っていたはずのサマリヤ。
しかし、もはやちゃんとした神への礼拝ができていない。
そこで、これからの礼拝とはどうなるのか、イエスが説く。
 
この流れならば、容易に理解できる。
 
もちろん、これを単なる作り話と決めつけるつもりは私にはない。
事実は神の計画や意志を踏まえて展開する。
5人の夫のいた女に、ずばり話が適用されたのだとしてもよいだろう。
 
また、この女は、いわば人々から軽蔑され、
水汲みのときに誰とも出会いたくないほどに、
人々の目から隠れて生きていたのに、
イエスに出会い、イエスのことを宣伝してまわっているのも不自然だ。
 
だが、まことの礼拝の知らせを聞いて、
それを告げてまわつたのだとすれば、
不自然どころか、実に正当な流れを築く。
 
少なくとも、ヨハネの描いた福音書の展開が
すっぽりと収まるように感じ、合点がゆく。
 
すっきり流れが読めないとき、
それでも幾度も読んでいるがいい。
あるとき、相応しいときに、
ふっと意味が繋がって見える景色が現れる。
 
もちろん、それは極めて個人的なことだ。
他の読者に強要するような性質のものではないし、
そういう意味が真実だ、などと言うつもりはない。
聖書は、神が個人に語りかけるためのものだ。
個人が受け止めて、個人の範囲で、個人の責任で、
それを咀嚼すればよい。
 
だから聖書は楽しい。
 
誤解されないよう念を押すが、
5人の夫が何も五書のことだ、と
決めてかかる必要はない。
調べてみると、これはサマリヤを混血に陥らせたとき
五つの町から異教の住人が入ってきたのだとも言われるのだ。
そして今のが正式な夫ではない、というのは
サマリヤ人の信仰が礼拝において正しい神へと向かっていない、
神との契約が正当でない、という理解ができるというのだ。
 
これも面白い。