聖書の言葉を「読む」のは、
実のところ、元来の形ではない。
「読む」ことにより、
歪みが生じている、という指摘もある。
 
福音書に描かれているのは、
イエスが語っている様子だ。
弟子たちも、語っている。
 
そもそも、書くということは
一般的な手法ではなかった。
エジプトでも、書記は訓練された存在であったし、
読める人が限られていた。
 
それでは、人々の救いにはならない。
 
時代のなせる技なのだ、と解することもできよう。
だが、少なくとも聖書が脈々と伝える神の言葉、その福音は、
例外なく、語られたものであった。
神が語る。
神の声を聞く。
 
聞く耳をもつ者は聞け。
 
聞くというのは、
人格的な出会いによるものだ、とも言える。
救いとは、まさにそういうものだ。
他人事、客観的な知識ではない。
神の声を、確かに聞くことによって、
初めて救いを体験するのは事実だ。
 
(続く)