教会がさびれていく。
一部、盛んになっていくところも、ある。
が、一概に、
いたずらに平均年齢が上昇するばかりとなる。
時に平均年齢が下がりましたよ、というのは、
高齢者が天に召されたが故だという、
笑えない冗談もある。
 
キリスト教内部の問題に、
どうしても目が向く。
あるいはまた、
聖書が時代に合わないのではないか、とも苦悩する。
あるいはまた、
無神論の影響だとか、
終末に至っている中での必然だとかいう考えも起こるだろう。
 
時代風潮のせいにする見方もある。
風紀の乱れた中で、
教会の教えは合わないのだ、などとも。
 
それぞれの想定には、意味がある。
だから速やかに否定すべき理由など、どこにもない。
ただ、私はよく思うのだが、
信仰や聖書への関心は
以前にも増してあるのではないだろうか。
 
旧い共同体や、氏子社会が崩れていく中で、
個人の信仰というものが尊重される傾向が強くなる。
信仰をもつならばキリスト教がいい、というイメージが
強いという調査もいつか見たような気がする。
 
教会というのは、もちろん建物ではない。
人と人とのつながりである。
いわば信仰による絆が、教会というものだ。
 
しかし、
この人と人との関係が疎んじられるとすれば、
教会は人気がないことと結びつく。
 
教会という組織あるいは一体となった権力は、
内村鑑三という悩み多き青年を敵愾心をもって責め、
ついにこの青年を教会不信に陥らせた。
現代の隠れた信仰ブームは、
いわばこの内村のような、個人的信仰とは言えないか。
そこに、通常の教会はむしろ疎んじられる存在として映る。
 
教会は、キリストのからだである。
しかし、プロテスタント自身、
からだだと自負していたカトリックに蹴りを入れて、
死んだ信仰には用はない、と分かれていったのだ。
今のプロテスタントが、
かつての死んだ教会組織のままで安穏としており、また
自分たちこそ正しく、自分たちに属さない者は滅びる、などと
高ぶっていたとしたら、
誰もプロテスタント教会に好んで連なろうとはしないであろう。
 
プロテスタント教会は、
宗教改革のときのカトリック教会の対応を
学んでもよいのではないだろうか。
 
私はそこに、脱出のための
一つのきっかけを見つけたいと思うのだ。