「絆をつくろう」という表現には
かなりの不自然さが否めない点は
幾度か指摘している。
切ろうにも切れないつながり、
気づいていなかったがそこにあった結びつき、
そうしたものを絆と呼ぶのだから。
阪神淡路のときにもそれが見直された。
東北においてはなおさらである。
元来の都市性とは異なり、
農村部におけるこの事態は、
つながるための基盤はよりはっきりしているかもしれない。
都市と呼ぼうが、村と呼ぼうが、
それは一種の共同体のつながり、結束である。
家族の絆であれば、家族単位の共同体である。
ところが、共同体には共通の価値観がある。
すべてにおいて同じ必要はないが、
一定の基盤を共有していなければ、共同体とは呼べない。
そもそも共同体ではありえない。
ここに、精神性は欠かせない。
だからこそ、同じ氏子であるべきであったし、
同じ菩提をもつのでなければならなかった。
それが、宗教の効用でもあった。
市民社会と名づけられたものは、
宗教によらない共同体を提言した。
それゆえにこそ、信教の自由の原理が登場した。
こうした背景や原理的考察を経ることなしに、
ただ感情や唯我主義で
「当然」の言葉を切り札にするとなると、
潤滑に進まないことは必定である。
共同体は幻想である、と言明してしまうのも一つである。
だが、人間の生活は何らかの共同体を必要としている。
何を妥協することができるか、を明確にするためにも、
何を妥協することができないか、の理解も必要だろう。
教会という共同体は、
その点共同体の原理がたいそう明確になっている。
古代はまさにそれがすべてであったこともある。
現代ではその機能は強くない。
しかし、精神性を重視する場合には、
大きな原理として働いていることは否めない。
自分の属する共同体は、
自分とどうつながっているだろうか。
自分は共同体に何を求めることができるだろうか。
自分は、共同体に何を貢献することができるだろうか。
この共同体のことを、時に「国家」とも呼んだ。
それは、利用する側が任意に指定して、
鼓舞することもできる思考原理でもあったのだ。
かなりの不自然さが否めない点は
幾度か指摘している。
切ろうにも切れないつながり、
気づいていなかったがそこにあった結びつき、
そうしたものを絆と呼ぶのだから。
阪神淡路のときにもそれが見直された。
東北においてはなおさらである。
元来の都市性とは異なり、
農村部におけるこの事態は、
つながるための基盤はよりはっきりしているかもしれない。
都市と呼ぼうが、村と呼ぼうが、
それは一種の共同体のつながり、結束である。
家族の絆であれば、家族単位の共同体である。
ところが、共同体には共通の価値観がある。
すべてにおいて同じ必要はないが、
一定の基盤を共有していなければ、共同体とは呼べない。
そもそも共同体ではありえない。
ここに、精神性は欠かせない。
だからこそ、同じ氏子であるべきであったし、
同じ菩提をもつのでなければならなかった。
それが、宗教の効用でもあった。
市民社会と名づけられたものは、
宗教によらない共同体を提言した。
それゆえにこそ、信教の自由の原理が登場した。
こうした背景や原理的考察を経ることなしに、
ただ感情や唯我主義で
「当然」の言葉を切り札にするとなると、
潤滑に進まないことは必定である。
共同体は幻想である、と言明してしまうのも一つである。
だが、人間の生活は何らかの共同体を必要としている。
何を妥協することができるか、を明確にするためにも、
何を妥協することができないか、の理解も必要だろう。
教会という共同体は、
その点共同体の原理がたいそう明確になっている。
古代はまさにそれがすべてであったこともある。
現代ではその機能は強くない。
しかし、精神性を重視する場合には、
大きな原理として働いていることは否めない。
自分の属する共同体は、
自分とどうつながっているだろうか。
自分は共同体に何を求めることができるだろうか。
自分は、共同体に何を貢献することができるだろうか。
この共同体のことを、時に「国家」とも呼んだ。
それは、利用する側が任意に指定して、
鼓舞することもできる思考原理でもあったのだ。