障害者や差別問題についても、
時折このようなことが起こる。
とてつもない差別や偏見の発言が
どこか陰で見つかるのだ。
たいていは、発言者が分からないような
王様の耳はロバの耳方式であるだろうが、
時に先の復興大臣のように、
調子に乗って公に出てしまうこともある。
それをことさらに非難するというのも差し控える
大人の対処をする社会というのもいいが、
社会全体が「なあなあ」になって
結局差別されている人々を
よってたかって苦しめるようなことになると、
多数が少数を踏みつぶすというだけの構図が
世の中の全てであるかのようなことになってしまう。
それも世の中かもしれない。
人間は、しょせんその程度なのかもしれない。
そうなるとますます、
結局のところは人間ならざる存在が
片を付けるのでなければならない、ということになる。
本音というものがあるということは、
人間の心が根本的に腐っている、ということでもある。
専制政治や独裁者を許さないという名目のために、
そういう欲望を認め、許してきた現代社会であるが、
果たしてそのように互いに「なあなあ」であることが
理想で最善の状態であるのか、それは考えにくいと言うべきだろう。
歴史を考えるとき、
現代が最高、最善であるという暗黙の前提があるものだが、
果たしてそういう前提に気づいて私たちは考えているかというと、
どうやらそうではないらしい。
それにしても、
あの汚染米騒動において、
報道する機関も、様々な対処をしているのが興味を惹く。
繰り返し繰り返し、
そのけしからん発言を出して報道するものもあれば、
決してその屈辱的な問題発言の言葉を出さずに
事件の次第を伝える機関もある。
報道なのだ、公正なのだ、という顔をして、
繰り返し繰り返しそのくだらない冗談のような侮蔑語を繰り返す報道は、
自分も一緒に同じことをしている、とは思わないのだろうか。
繰り返し聞いた子どもは、
面白い言葉だと皆で冗談のように言い続けることになろう。
使うことが必要だと思われるような差別語を作ってしまうマスコミが、
このような新たな屈辱の差別語を
報道の自由とか何とかいう理由を以て
幾度も繰り返し垂れ流しにしているということは、
よってたかってのいじめである、と言ってよいと私は思うのだが、
違うだろうか。
時折このようなことが起こる。
とてつもない差別や偏見の発言が
どこか陰で見つかるのだ。
たいていは、発言者が分からないような
王様の耳はロバの耳方式であるだろうが、
時に先の復興大臣のように、
調子に乗って公に出てしまうこともある。
それをことさらに非難するというのも差し控える
大人の対処をする社会というのもいいが、
社会全体が「なあなあ」になって
結局差別されている人々を
よってたかって苦しめるようなことになると、
多数が少数を踏みつぶすというだけの構図が
世の中の全てであるかのようなことになってしまう。
それも世の中かもしれない。
人間は、しょせんその程度なのかもしれない。
そうなるとますます、
結局のところは人間ならざる存在が
片を付けるのでなければならない、ということになる。
本音というものがあるということは、
人間の心が根本的に腐っている、ということでもある。
専制政治や独裁者を許さないという名目のために、
そういう欲望を認め、許してきた現代社会であるが、
果たしてそのように互いに「なあなあ」であることが
理想で最善の状態であるのか、それは考えにくいと言うべきだろう。
歴史を考えるとき、
現代が最高、最善であるという暗黙の前提があるものだが、
果たしてそういう前提に気づいて私たちは考えているかというと、
どうやらそうではないらしい。
それにしても、
あの汚染米騒動において、
報道する機関も、様々な対処をしているのが興味を惹く。
繰り返し繰り返し、
そのけしからん発言を出して報道するものもあれば、
決してその屈辱的な問題発言の言葉を出さずに
事件の次第を伝える機関もある。
報道なのだ、公正なのだ、という顔をして、
繰り返し繰り返しそのくだらない冗談のような侮蔑語を繰り返す報道は、
自分も一緒に同じことをしている、とは思わないのだろうか。
繰り返し聞いた子どもは、
面白い言葉だと皆で冗談のように言い続けることになろう。
使うことが必要だと思われるような差別語を作ってしまうマスコミが、
このような新たな屈辱の差別語を
報道の自由とか何とかいう理由を以て
幾度も繰り返し垂れ流しにしているということは、
よってたかってのいじめである、と言ってよいと私は思うのだが、
違うだろうか。