被曝。
この言葉が、平然と
何のしこりもないままに
垂れ流しになるようになった。
 
広島のピカドンは、
もう半世紀以上も
草木を生やすまいとさえ恐れられたという。
 
ヒロシマ。
ナガサキ。
そして
フクシマ。
 
カタカナになどしてくれるな、との叫びが聞こえる。
むしろ海外から
恐れられているのは、
海外においても
それが起こり得るからかもしれない。
 
戦争における原子爆弾は、
その意味では可能性が低いと考えられているのか。
たとえあれほどに核爆弾が
世界中に潜んでいるのだとしても。
 
爆弾はもちろん恐ろしい。
だが、その爆弾の後に残る得体の知れない死の毒として、
放射能があるとすれば、
その漂う毒は
今また日本の各地にばらまかれていることは間違いない。
 
そこに、被曝が成立する。
 
かつて、これもカタカナになった。
ヒバクシャ。
 
今回も、被爆者がいる。
カタカナであろうが漢字であろうが、
本人の責任でないことによって
被曝をすることになったのだ。
 
新約聖書の黙示録の9章に、こんな言葉がある。
「いなご」なるものについての預言である。
 
(いなごは、神の刻印を押されていない人を)殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。……(いなごの姿は)更に、さそりのように、尾と針があって、この尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。(新共同訳)
 
現代の兵器や出来事に
一つ一つ当てはめて喜ぶようなことを私はしないが、
なんとも現代のことを
指摘しているような気がしないだろうか。
 
私たちは、なんと
いのちを蔑ろにしていることだろう。
日常の、小さなことから、
多大な影響を与える破滅的な事態に至るまで。