夏休みのプールで男児水死

悲しい見出しである。
こういう言葉の痛々しさに、
見るだけで胸が苦しくなる。
この子のことを思うと、悲しくてたまらない。
 
これは大阪府泉南市の小学校のプール。
夏休みの施設開放中の事故だったという。
事故の原因ははっきりしているようだ。
プールの監視員が、そのとき誰もいなかったのだ。
 
学校は業者と契約していた。
四人が監視するという内容だったらしい。
しかし、その日、
二人が欠陥、
他の二人は現場から離れていたのだと報道されている。
 
よく分からないのだが、
別の報道では、
8人配置の約束が、6人だった、などともいう。
 
他の報道では、
当日は一人の監視員しかおらず、
その一人が事務室にいた、とされている。
 
業者は、
学校からの委託料では人員が雇えないと相談していたが、
教育委員会からガンバレと言われストップがかからなかったので
そのままやっていた、という言い訳もしている。
 
またそのことで、
教育委員会の担当者も事態を知っていたというふうに
報じられている。
 
全く、報道の内容もあやふやで信頼が置けない。
しかし、確実なことがある。
教育する者たちがよってたかって
子どもを殺した、ということである。
 
ちょっとくらい、いいだろう。
なんとかなる。
めったに事故なんかないのだから、なんとか凌ごう。
人がいくらいても、事故は起こるときには起こるんだから。
 
そんな大人たちの本音が漏れ聞こえてきそうだ。
しかし、学校の責任などにばかりしていることもできない。
学校は萎縮して、プール開放をやめてしまうだろう。
 
責任が負えないなどという理由を考え出して、
子どものプール開放が減少していき、
子どもたちの教育も発育も犠牲にされていくとすれば、
大人たちはもう駄目だということになる。
 
教育という管理組織は、
もうすでに以前から駄目になっていたのだから、
今更驚くことではない、という人もいるだろう。
 
教育は、金儲けや効率の問題とは
完全に切り離して考えなければならない。
このことを、他の大人がはっきり宣言すべきだ。
教育は、今風の経済ではないのだ。
元々経済とは、カネに限らず生活全体を管理することを言った。
それがたんなる金銭の計算になっていて、
その金銭勘定で教育が量られ、
子どもの命が金銭のために奪われていくのだとすれば、
もはや国家は存在を放棄したに等しい。
 
教育そのものに、
今風の経済原理が適用されている限り、
そしてまた、時に一定の国家的圧迫がなされている限り、
もう未来は消えていく運命をひた走るしかないと私は感じる。