聖書を読むとき、この「すりかえ」は
意外と簡単に起こる。
自分が主体となり、自分の見出した真理が世界の真理となる。
それを見抜いた自分が正義そのものになる。
神の権威を利用して、自分が王となる。
いや、すでに自分が神となっている。
敬虔なと称されるキリスト者の中にも、
この罠に陥る人がいる。
偉大な伝道者、牧者と称えられる人でさえ、
この罠に陥るケースが跡を絶たない。
自分の意見に与しない者を悪魔呼ばわりするので、
客観的な見分けは実は簡単である場合がある。
悪魔に魅入られた者のほうが、
しきりに「悪魔、悪魔」と口にするのは皮肉でもある。
聖書を用いるから正義となるわけではない。
悪魔の誘惑の記事に、私たちはこれをも学びたい。
基本構造は、神が主人であり、人はしもべである。
これについては、微塵も揺らいではならない。
それが、目を覚ましている、ということの意味の一つである。
また、新興宗教の中にも、
このようなことはしばしば起こる。
とくに金銭的に力をもつようになった場合、
その暴走はとどまるところを知らない。
しかしそれは、社会的には保護される。
法に触れるような「へま」をやらないほど、
彼らは狡知である。
だが宗教とは何か、本物に接していないぼんぼんは、
簡単にその糸に捕らえられてしまう。
悪魔はやはり巧妙である。
意外と簡単に起こる。
自分が主体となり、自分の見出した真理が世界の真理となる。
それを見抜いた自分が正義そのものになる。
神の権威を利用して、自分が王となる。
いや、すでに自分が神となっている。
敬虔なと称されるキリスト者の中にも、
この罠に陥る人がいる。
偉大な伝道者、牧者と称えられる人でさえ、
この罠に陥るケースが跡を絶たない。
自分の意見に与しない者を悪魔呼ばわりするので、
客観的な見分けは実は簡単である場合がある。
悪魔に魅入られた者のほうが、
しきりに「悪魔、悪魔」と口にするのは皮肉でもある。
聖書を用いるから正義となるわけではない。
悪魔の誘惑の記事に、私たちはこれをも学びたい。
基本構造は、神が主人であり、人はしもべである。
これについては、微塵も揺らいではならない。
それが、目を覚ましている、ということの意味の一つである。
また、新興宗教の中にも、
このようなことはしばしば起こる。
とくに金銭的に力をもつようになった場合、
その暴走はとどまるところを知らない。
しかしそれは、社会的には保護される。
法に触れるような「へま」をやらないほど、
彼らは狡知である。
だが宗教とは何か、本物に接していないぼんぼんは、
簡単にその糸に捕らえられてしまう。
悪魔はやはり巧妙である。