宗教がブームであると先般記したが、
実のところ、哲学もブームとなっている。
哲学の解説書が
ビジネス書の棚によく並ぶし、
雑誌やムックでもよく特集されている。
これもまた、宗教と観点は似ている。
ものごとの根本や、根拠といったもの、
「そもそも」と考える思考法は、
日本の教育から閉め出されていた。
日本では、
原理を疑うような発想は歓迎されず、
お上の立てた原理に従う方法ばかりが
尊重されてきたのだ。
たとえばフランスでは、
幼いころから哲学的思考が要請されている。
フランスの小学校では哲学と言ってよい授業が展開される。
幼稚園でもなされた哲学対話が
『ちいさな哲学者たち』という映画になって上映されるという。
フランスという地は、
哲学の歴史からしても、
必ずしもことさらに巨大な思想体系を提供した地とは言えない。
が、ラテン思想の受け継いで、
哲学が血となり肉となって今日を築いていることは間違いない。
大学入学資格のための試験(バカロレア)では
哲学が必要であり、
フランスの高校生にとり哲学は重要な知恵となっている。
日本の一般のビジネスパーソンにとり、
哲学とはどんな位置を占めるものであろうか。
何やら禅問答のようなもの、
難しい言葉を並べ立てるようなものだとしばしば揶揄されるが、
こうした思考訓練は、
日本の風土とは程遠いものとなってしまってはいないだろうか。
もちろん背景が違う。
原理的思考を基とした西洋思考がすべてではないだろう。
日本の和算は思考法が違うが抜群の成果をもたらしている。
朱子学なり心学なり、深い知恵があるのは確かだろう。
果たして、求められているものは何だろう。
多分に、何を求めているのかさえ分からずに、
人々はすがるものを見つけようとしているのではなかろうか。
宗教だろうが、哲学だろうが、
よって立つ確かな基準、
動かず揺るがぬ基盤が欲しいのではないだろうか。
従来、自身こそ自分の信じる自信であろうと強がっていたものが、
地震でも揺るがないような本物に憧れているのかもしれない。
クリスチャンは、そういう基盤をもっている。
基盤をもつ者こそが、クリスチャンである。
岩なるキリストである。
実のところ、哲学もブームとなっている。
哲学の解説書が
ビジネス書の棚によく並ぶし、
雑誌やムックでもよく特集されている。
これもまた、宗教と観点は似ている。
ものごとの根本や、根拠といったもの、
「そもそも」と考える思考法は、
日本の教育から閉め出されていた。
日本では、
原理を疑うような発想は歓迎されず、
お上の立てた原理に従う方法ばかりが
尊重されてきたのだ。
たとえばフランスでは、
幼いころから哲学的思考が要請されている。
フランスの小学校では哲学と言ってよい授業が展開される。
幼稚園でもなされた哲学対話が
『ちいさな哲学者たち』という映画になって上映されるという。
フランスという地は、
哲学の歴史からしても、
必ずしもことさらに巨大な思想体系を提供した地とは言えない。
が、ラテン思想の受け継いで、
哲学が血となり肉となって今日を築いていることは間違いない。
大学入学資格のための試験(バカロレア)では
哲学が必要であり、
フランスの高校生にとり哲学は重要な知恵となっている。
日本の一般のビジネスパーソンにとり、
哲学とはどんな位置を占めるものであろうか。
何やら禅問答のようなもの、
難しい言葉を並べ立てるようなものだとしばしば揶揄されるが、
こうした思考訓練は、
日本の風土とは程遠いものとなってしまってはいないだろうか。
もちろん背景が違う。
原理的思考を基とした西洋思考がすべてではないだろう。
日本の和算は思考法が違うが抜群の成果をもたらしている。
朱子学なり心学なり、深い知恵があるのは確かだろう。
果たして、求められているものは何だろう。
多分に、何を求めているのかさえ分からずに、
人々はすがるものを見つけようとしているのではなかろうか。
宗教だろうが、哲学だろうが、
よって立つ確かな基準、
動かず揺るがぬ基盤が欲しいのではないだろうか。
従来、自身こそ自分の信じる自信であろうと強がっていたものが、
地震でも揺るがないような本物に憧れているのかもしれない。
クリスチャンは、そういう基盤をもっている。
基盤をもつ者こそが、クリスチャンである。
岩なるキリストである。