カルヴァンの本を見ていると、
キリスト教は宗教だという強調が見られる。
これが最近になると、
キリスト教は宗教ではない、という声が強い。
 
「宗教」という言葉の意味するところのものが
変化したものと思われる。
また、「宗教」というものに対する見方が
変化したのでもあるだろう。
 
神仏を信仰すること、あたりが無難か。
ただ日本語で「宗教」という言葉は
どこかよそよそしい印象を与える。
 
宗教教育はどうあるべきか。
最近、ちょっとした話題の中心である。
 
政教分離が絶対的原理のように信じられている中で、
必ずしもそうはうまくゆかない、あるいは
政教分離というのが一定の前提のもとに
ある条件においてだけ問題とすべきという議論もある。
 
宗教教育とて同じ。
宗教的なことを教育しないのもまた問題であるし、
それは宗教ではない、という思いこみで
しっかり宗教を強制している場合すらある。
 
最高裁の判断はとりあえず根拠となるので、
このごろでは、
教育現場における君が代や日の丸の強制がまかり通っている。
それは宗教ではない、という言い方で抑えている。
 
はたしてそうだろうか、という疑問も当然あり得るはずだ。
だが、それさえも封印させられる。
 
キリスト教会が政権と結びついていた時代を
よしとするのもおかしいであろう。
だがまた、
神社行事は宗教でない、という詭弁が平気で通る宗教観も
どうかしている。
だが、それがなされているのがこの国の風土である。
 
キリスト教会での催しは宗教だから掲示できない。
町内会はそう言うのだが、
神社行事に参加するのは当然だと言い寄り、
神社行事のために町内会費は使うことは問題とは感じない。
 
神社の夏祭りのために
公的な費用が使われることに
もっと疑問を呈するのでなければなるまい。
それは原理的におかしいことに、
気づくことからまず始めなければなるまい。