昨日の逆にまた、
神は実はこのようである、と
あたかも神を弁護するようなことに、
クリスチャンはしばしば熱中する。
いや、聖書にはこう書いてある。
神はこんな御方なんだ……。
これも、裏を返せば、
自分を神より上に置く行為だとも言える。
弁神論は歴史の中でも
しばしば揶揄されてきたものだが、
それは原理的にも、問題を含んでいるのだ。
神は、
こんな私の弁護などを
必要とするような御方ではない。
ただし、
だから無駄だとか意味がないとかは言わない。
神の目から見て、健気に映るかもしれない。
そのとき、大切なことがある。
神に語ることだ。
論敵を負かすことや、
世の軽蔑に囲まれていると思うことから解放されて、
天へと響かせる道筋を常に保っていることだ。
神の呼びかけに応える、
それが基本である。
神と対話をする、
それがライフラインである。
神を弁護するため、になど
弁舌をまくしたてる必要はない。
だが、ちゃんと背後につながっている神と、
「……なんですのにねぇ」などと
たえず相談しながら言葉を紡ぎ出せばよい。
大切なことは聖霊がその都度教える、という
イエスのアドバイスは、
そういうことではないかと思うのだ。