甘いものばかり食べてきた。
それから、スナック菓子。
食料品店に行くと、私は驚く。
あの、スナック菓子の棚の広く大きいことだ。
私はまず殆ど食べないから、
とてつもなく無駄な陳列のように思えて仕方がないが、
どうやらそうではないらしい。
若い親がまた、子どもにスナック菓子を与えている。
子どもの肥満や生活習慣病との関連も、
少なからずあるのではと思う。
もちろん、虫歯も。
そして、多分に集中力のなさや、噛む力、栄養の偏りにも
無関係だとするほうに、無理がある。
こんなことを記すと、
証拠もないのに、とか、印象だけで分かったふうなことを言うな、とか
また言われるだろう。
たばこと害は関係がない、と因果関係で責める者が
たくさんいるのだから、スナック菓子はなおさらだろう。
それに、スナック菓子のメーカーを敵に回すつもりもない。
しかし、本物の味を悉くスナック菓子に風味としてつけていく手法が、
健全な食生活を妨げているというのは、告げるほうが親切だと私は思う。
人間一般にとって。
苦いのがだめだというのは、
自分が少しでも傷つくのがいやだという精神と一致する。
辛苦を味わってこそ人は成長するのだろうが、
今や辛苦を味わうのは運が悪い人だけだと見なされる。
気の毒な人なのだ。
苦みを知らない人間が、
人として望ましい人生観をもつようには私には思えない。
先日も、
少し気温が前日より上がったことで、
「あつい、あつい」と教室にクーラーを入れてくれという子がいた。
冷房設定温度よりも気温が低い日の夜である。
自分で体温調節ができない体質になってしまっているのかもしれない。
苦みは、幼い間は味わえず、
人体にとり毒だと認識する性格のものらしい。
それが、必要なものもあるということで、
大人になるにつれ苦みを覚えることになるという。
味覚として苦みを覚える機会を失った人間が、
自律神経を育むことができないというのは、ありうることだ。
体温調節ができないということは、
自己をコントロールできないということである。
苦みは、侮れない。
それから、スナック菓子。
食料品店に行くと、私は驚く。
あの、スナック菓子の棚の広く大きいことだ。
私はまず殆ど食べないから、
とてつもなく無駄な陳列のように思えて仕方がないが、
どうやらそうではないらしい。
若い親がまた、子どもにスナック菓子を与えている。
子どもの肥満や生活習慣病との関連も、
少なからずあるのではと思う。
もちろん、虫歯も。
そして、多分に集中力のなさや、噛む力、栄養の偏りにも
無関係だとするほうに、無理がある。
こんなことを記すと、
証拠もないのに、とか、印象だけで分かったふうなことを言うな、とか
また言われるだろう。
たばこと害は関係がない、と因果関係で責める者が
たくさんいるのだから、スナック菓子はなおさらだろう。
それに、スナック菓子のメーカーを敵に回すつもりもない。
しかし、本物の味を悉くスナック菓子に風味としてつけていく手法が、
健全な食生活を妨げているというのは、告げるほうが親切だと私は思う。
人間一般にとって。
苦いのがだめだというのは、
自分が少しでも傷つくのがいやだという精神と一致する。
辛苦を味わってこそ人は成長するのだろうが、
今や辛苦を味わうのは運が悪い人だけだと見なされる。
気の毒な人なのだ。
苦みを知らない人間が、
人として望ましい人生観をもつようには私には思えない。
先日も、
少し気温が前日より上がったことで、
「あつい、あつい」と教室にクーラーを入れてくれという子がいた。
冷房設定温度よりも気温が低い日の夜である。
自分で体温調節ができない体質になってしまっているのかもしれない。
苦みは、幼い間は味わえず、
人体にとり毒だと認識する性格のものらしい。
それが、必要なものもあるということで、
大人になるにつれ苦みを覚えることになるという。
味覚として苦みを覚える機会を失った人間が、
自律神経を育むことができないというのは、ありうることだ。
体温調節ができないということは、
自己をコントロールできないということである。
苦みは、侮れない。