震災被害において
日本人が悪辣なことをせず、
我慢の精神を示していたことは、
世界に広く知られ、感動を呼んだ。
 
その側面が強調されすぎると恥ずかしいのは、
必ずしも悪いことが行われていないわけではないからでもある。
 
おまけに、東北の人は我慢強い、などと
まことしやかに流れると、
よけい当地の人々は我慢しなければならなくなる。
 
また、
これは誤解なく受け止めて戴きたいのだが、
福島県は、原子力発電所に関して
単純に一方的な被害者だと言いにくい側面がある。
 
個人に直接というわけではないにしても、
地元の様々な経済支援を
原子力発電所を設けることによって受けているということだ。
 
原発を招いた、とも理解できるとすれば、
その安全性については
もっと関与していくことができていたら
何か力になっていたかもしれないのだろうか。
 
誰か最も責任が重い者に、
すべての責任を負わせようとする傾向が、人にはある。
イエスもそうやって十字架につけよと叫ばれた。
 
いや、言いたいのはそういうことではない。
福島に住む人が、でなく、
私たちすべての国民が、
原発の安全性はそれでよいのか、と
もっと常日頃に監視し、追及している必要があった、ということだ。
 
日本人の美徳などと言う海外の声の故ではない。
彼らは彼らで、
インドネシアやハイチとは明らかに違った対応を
日本に対してしている一面もあるはずだ。
私たちがまた、それに同調して、
日本人は我慢強いなどと、被災地の人々に圧力をかけているのだ。
 
援助をしていようがいまいが、
被災していないはずの私たちが、
何かしら手を加えており、責任を負わねばならないことをしている。
その自分の責任性に、
どうやら気づかない、気づこうとしないのが
私たちの常なのではないかと感じるのだ。
 
何よりまた、
私たち一般の者が電気を大量に使う豊かな生活をしているからこそ、
原子力発電所が必要になったのではないのか。
私たちが、それを造らせてきたのだ。
利用者がダイヤを急がせて遠因となった、
福知山線尼崎における列車脱線事故と同じ構図がそこにある。
 
自分に責任がある、
これを前提に議論をしない限り、
どんなことも解決へは導かれまい。
 
自分の次の選挙の票数を気にするあまり、
総理大臣の責任にして、悪者とし、
自分は正義だという顔をしようとしている輩には、
おそらく政治を担う資格など、ないと言えるだろう。