受難日である。
 
もとより、満月を頼りに
復活の日をいわば勝手に定めた
教会組織のこしらえたカレンダーに基づく日取りなので、
まさにパウロのように、
どの日が大切でどの日が云々と気にする人がいるというのは、
このおめでたいクリスチャンたちのことなのかもしれない。
 
だが、おめでたくて、よいと思う。
身を切るような思いで
この日を迎えることがあることは、
何も否定するようなことではない。
 
ただ、年に一日だけ、
十字架だなあ、などと思うのであっては困る。
私たちは、日々十字架を負って歩んでいるはずなのである。
イエスの焼き印を帯びているという
パウロの叫びは、すべてのクリスチャンの叫びであるべきなのだ。
 
この受難日並びにイースターは、
3月と4月と、年により推移する。
これが、案外困る。
日本の年度末が3月末であるから、
ある「年度」にはイースターがなく、
ある「年度」にはイースターが二度ある、
などということが平気で起こる。
 
自分より辛い人がいる、という思いは、
自分の忍耐の力となる場合がある。
十字架の受難とはまた意味が異なるが、
東日本の方々の背負った災難には、
かける言葉も実のところない。
それでいて、やはりどこか遠い場所であるのも事実なのだ。
 
しかし、心を近くにすることは、無理なことではない。
神にはできないことはない。
イエスは、今この時代にも、何億何十億という人と共にいる。
 
気仙沼には、
木の枝のような十字架が再び掲げられたという。
大いなる痛手を受けても、
イエスがいるから、イエスは消えないから、
どこからでも、また始めることができるというのだ。
 
依然として、他人事のようにしか話をしない
重大事故の責任者たちを遠目に見つつ、
信仰者は、大路を歩く。
 
人が決めた受難日にも、
生ける主が、共にいる。