そういうわけだから、
外国からの移民には非常に警戒心を発する。
何をするか分からないとか、
犯罪の危険だとか。
 
外国から来た人は、
日本の「空気」を察することができないことが
根本的にあるような気がする。
「何をするか分からない」というのは、
「空気」が読めないことを言うのだ。
いや、「空気」に染まらないこと、と言えばより適切であろう。
 
そういう空気が、とりまく。
個性的な一輪の花ではなく、
辺りをとりまく桜こそが、日本の美であった。
そのような空気に包まれるのが、
生のあり方となっていたのだ。
 
この国における福音は、
もしかしたら、
根本的に、西欧から輸入されたものと
違う鍵穴をもっているのではないか。
私は、自分が拾い出されたところをもう一度振り返る。
私はその「空気」に染まることをよしとしないタイプだが、
それでも、
今やっていることは、顔色をうかがいながら、という生活だ。
 
何かそこに、よいものもあるから、そうしているのだ。
 
聖書には厳しく「分ける」ことがつきまとう。
神は、最初の創造のときから、光と闇を分けた。
分けるのは、選びであったと理解できるはずなのに、
なぜか二元的な分け方である、と
その後引き継がれていったように見える。
 
日本語はそういえば、「分かる」であった。
自動詞である。
どこか自発的な色合いを帯びた、自然と分かれてくるような。
 
まとまりがつかないが、
「分ける」のではなく、「分かる」のが、
日本の中での福音のすがたに影響を与える
鍵となるのではないだろうか、という気がする。
寄り添う共感でもいい。
ただ言葉もなく一緒にいるだけでもいい。
 
I love you. の日本語訳は、
「月が綺麗ですね」がいいとか、
「死んでもいい」までもっていくとか、
そういう感覚は、
決して「分けて」はいないが、「分かる」動きである。
 
もっと考えてみたいテーマである。