NHKで、
「心霊探偵 八雲」というアニメをやっていた。
最近、土曜日から日曜日にかけての深夜、
集中して数話ずつ、三回に分けて放送されていた。
偶々最初をちょっと見て、
面白いじゃないかと思った。
 
クリスチャンとしては、
聖書の世界観と全く違う、
「けしからん」話である。
だが、なかなか面白い。
少なくとも、私好みの描かれ方のアニメだった。
 
八雲は、いわくある生い立ちをもつが、それ以上に、
彼には、死者の霊が見えるというのだ。
ご存じのない方に簡潔に説明できる能力を私はもたないので、
どうかそのような方はあらすじや人物相関図などご覧戴きたい。
 
ドラマ性の点からも面白いものであったが、
八雲がもつ、負い目のような、憎しみのような、
そんな心情が、赦しの中で超えられていくような気がして、
そのアニメシリーズの最終回は大いに共感した。
 
それにしても、
死者の「思い」が「霊」というかたちをもつ、
それが前提となってそこに描かれているわけだが、
これは実に、日本的な精神世界をよく描いていると言えないだろうか。
死者の霊魂が、そこに留まる。
あるいは、時折「こちら」へ来る。
魂魄の後半は、白骨を意味するともいうが、
魂のほうがこれを求めて降りてくるのである。
 
何らかの共感をもってしまう、ということだけでも、
私の中にそういう日本的感性があるのは間違いないが、
もちろん私の世界観は、それとは異なるものになっている。
なぜ私の中にある感性がすべてではないかというと、
私が罪の中にある存在だからだ。
私の罪は、水で流せるようなものではなかった。
それは、赦されるのでなければ、消えるものではなかった。
いや、聖書にある赦しは、罪の証書の無効を宣言するものであった。
 
自分の感性を全肯定できる人間は、いてはならない。
それができる存在は、神であるほかない。
人は、神ではない。
人は、自分を神としてはならない。
また、誰か他の人を神としてはならない。
 
別に改めて触れるつもりであるが、
自分で自分を許す、
すっかり神になった精神が、どんなに溢れているか、
それは自分を含めて、痛感する日々である。