日本手話と、日本語手話。
漢字が一つ入るかどうかの違いだが、
中身は大違いである。
 
前者は、ろう者の中で生まれた言語。
後者は、聴者の日本語文法に動きをつけたもの。
たとえになるかどうか分からないが、
前者がネイティブの普通の英語だとすると、
後者は、日本人が英単語を日本語順に置き換えて並べたようなもの。
 
当たっているかどうか確証はないが、
「私には兄がいます」を伝えるのに、
前者だと "I have a brother." となるとすれば、
後者は "I a brother is."のようなものなのだろうか。
 
聴者とろう者とのコミュニケーションも大切である。
この社会が、少数者としてのろう者にも
少しでも住みやすいものになっていくことが望ましい。
しかし、
「これで十分正しいだろう」ということで、
"I a brother is."を通訳者が伝え、
テレビの手話ニュースが伝えているとすれば、
それは誰のためにもなっていないとしか言えなくなる。
 
一つには、
ろう者の手話は、補助的手段だという、
一段下にあるようなものだと聴者が思いこんでいて、
助けてやろう、といった気持ちで、
あるいは意地悪く言えば、
ちゃんと福祉をやっているんですよ、と宣伝したいために、
日本語手話を公式のものにしようとしていた背景がある。
 
かつて、欧米でも、道を誤った。
口話教育を押しつけた時代があったのだ。
だが、その誤りに気づいて軌道修正もした。
ところが日本では、そのどちらの過程も、
半世紀単位で遅れて動いてきたのだという。
 
当事者のために、と労するうちに、
いつの間にか自分のためにやっている可能性がある。
甚だしい場合には、
自分のことしか考えていないのに、
相手のためにやっているのだというポーズをとり、
時にそれを自分のために利用しさえする。
 
ただ、ろう者のほうからも、
いきなりどんなことでも要求して直ちに実現を、
というのも難しい。
現実的にできることから、しかし、
目ざすべきものを見据えたような仕方で、
改善していく途はないだろうか、と思う。
 
互いに理解するということは、
どんなにか大切なことなのだろう。