反例という言葉がある。
全称命題に対して、その真を否定するのは簡単なのである。
反例を一つ挙げればよい、というものである。
 
「すべての力士が八百長をしているのではない!」
という理事長の声が哀しく響いてくるが、
確かにこれは真である。(あろう?)
 
ところが、現今では、
「八百長をしている力士がわずかでもいた」
ことが実は問題になっている。
 
前者の場合には、
「一人でも、潔白な力士がいた」
ことで悪評は否定される、と考えている。
考えてみれば空しい言明である。
これを言わなければならない事態は、
実は崩壊寸前であることの証拠となっているのだ。
 
自分のしていることが批判されると、カッとくる。
「わたしはそうじゃない」と叫ぶ。
これも、反例を一つ作ることで、
正当化しようとする心理である。
 
ひどい場合は、
「タバコは人に迷惑をかける」という批判に対して、
「オレはタバコを吸っているが健康だ」という、
反論にも何もなっていないことを主張することもある。
 
逆に、
「自分だけが悪いのではない」
と言って自己正当化をはかることも多い。
何か責められると、
ほかにも同じことをしている者がいる、と弁明するのである。
 
実は、弁明にはなっていない。
それは、自分がそれをしていることを認めているだけである。
だのに、
「どうしてオレだけが責められるのだ」と言いたいがために、
そう言ってしまうのである。
 
つくづく、
人間は自己弁護の塊であると思うし、
他方で、罪を免れる者がいない、とも言える。
 
それを、また、
「そんなことはない」という弁明が迎える様子が
想像できる。