他方、八百長をしたのは誰か、という調査が必要とされている。
明らかになることは、不可能と私は見る。
昨今の子どもたちを見ていると、そうとしか考えられない。
「しらばっくれる」というと聞こえが悪いが、
そもそも自分が悪いことをしたので名乗り出る、ということをしない。
悪いことをしている、という意識が欠落していることもある。
それは、親も同じである。
自分が間違っているのだろうか、と省みる感覚が、
育てられていないのだ。
お天道様が見ている、とか
世間様が許さない、とか、
日本にもそれなりに、畏れるべき権威があったときには、
正直にすることが美徳とされた。
だが、もはやそれがない。
むしろ、前回の野球賭博においても、
正直に告白した者だけが処罰されている。
法的権利が絡むと、
証拠なしには罰することができないのだから、
正直に告白した者だけしか処罰されないのだ。
だったらなおさら、
黙っておいたほうが、絶対に得である。
どうにも逃れられない証拠を突きつけられない限りは、
「やりました」と認めることはないであろう。
だから、
そもそも、これはスポーツだ、と見せたいのが誤っているとすべきだろう。
虚像だけで、税金を払わずに済ませようと図るところに、無理がある。
もし、どうしても公益団体にしたいのであれば、
野球やサッカーのように、
各部屋が独立したチームのようになり、
優秀なチームが表彰されるという制度をとるとよいのだ。
真に競うしかなくなるであろうから、
スポーツとして成立するかもしれない。
そのためには、おそらく、
宗教色を消したほうがよいだろう。
神事であるままに、公益をうたうことはできないからだ。
組織そのものを一回崩して、
根本的に再構築しない限り、
今回のような矛盾は常に現れる。
個人の責任にしようとする調査は不毛であると気づいたら、
「部屋」の再編を図るのがベターではないだろうか。
よく知る子が、力士になった。
成績は芳しくないが、
きっと夢をもって精進していることだろう。
彼の顔を思い浮かべると、
これまでの私のように、
相撲に冷たくすることもできないのだ。
明らかになることは、不可能と私は見る。
昨今の子どもたちを見ていると、そうとしか考えられない。
「しらばっくれる」というと聞こえが悪いが、
そもそも自分が悪いことをしたので名乗り出る、ということをしない。
悪いことをしている、という意識が欠落していることもある。
それは、親も同じである。
自分が間違っているのだろうか、と省みる感覚が、
育てられていないのだ。
お天道様が見ている、とか
世間様が許さない、とか、
日本にもそれなりに、畏れるべき権威があったときには、
正直にすることが美徳とされた。
だが、もはやそれがない。
むしろ、前回の野球賭博においても、
正直に告白した者だけが処罰されている。
法的権利が絡むと、
証拠なしには罰することができないのだから、
正直に告白した者だけしか処罰されないのだ。
だったらなおさら、
黙っておいたほうが、絶対に得である。
どうにも逃れられない証拠を突きつけられない限りは、
「やりました」と認めることはないであろう。
だから、
そもそも、これはスポーツだ、と見せたいのが誤っているとすべきだろう。
虚像だけで、税金を払わずに済ませようと図るところに、無理がある。
もし、どうしても公益団体にしたいのであれば、
野球やサッカーのように、
各部屋が独立したチームのようになり、
優秀なチームが表彰されるという制度をとるとよいのだ。
真に競うしかなくなるであろうから、
スポーツとして成立するかもしれない。
そのためには、おそらく、
宗教色を消したほうがよいだろう。
神事であるままに、公益をうたうことはできないからだ。
組織そのものを一回崩して、
根本的に再構築しない限り、
今回のような矛盾は常に現れる。
個人の責任にしようとする調査は不毛であると気づいたら、
「部屋」の再編を図るのがベターではないだろうか。
よく知る子が、力士になった。
成績は芳しくないが、
きっと夢をもって精進していることだろう。
彼の顔を思い浮かべると、
これまでの私のように、
相撲に冷たくすることもできないのだ。