人間観察をしている人間は、
当然、他者からすれば、観察される対象である。
他の人からは姿が見えない箱の中に隠れて、
小さく開けた穴から世間を眺めている、という構図とは違う。
実存主義の時代にそうした考えの愚かさはすでに暴露されている。
 
しかし、思想なるものを学ばない世代は、
ちょっと自分が思いついたことを
世紀の大発見のように自慢してしまう。
 
いや、話がずれた。
見ている自分は、同時に、
見られている自分でもあるという話だった。
もしも、
その単純な事実に気づいてさえいるならば、
もはや、
電車の中で騒ぐようなことは、できなくなる、と普通に思われるが、
彼らにしてみれば、
気づいているけれども自分はしたいことをするんだよ、と
けろりと言ってしまいそうである。
 
人間は、
自分を神にしてしまう性向をなかなか消せないものだが、
あるのが当たり前で、ないのが我慢できない世代、
あるいは、自分の思うことは現実になるのが当然と見なす世代だと、
どうして自分を神にしてはいけないのか、という疑問すら
飛び出してきそうな気がしてくる。
 
自分が観察しているつもりで無邪気に騒ぐその人が、
その時点でつねにすでに、
観察されている対象であるわけで、しかも、
その構造に気づいていないか、あるいは
気づいていてもそこから至る、
自分の規律への義務のようなものに
全く思いが及ばないという精神的基盤があるとすれば、
従来の道徳や正義の論理が簡単に踏みにじられることがあるのであって、
どうかすると極めて異常なふうにさえ見える、
奇妙な凶悪犯罪の根底にあるものが、
うっすらうかがえることになるかもしれない。
そして、
そうしたどこか気味悪い犯罪が、
やがて当然のことのように続く世界になるかもしれない。
それを作っていったのは、この私であり、大人たちであるのだ。