公園に子どもを連れて行くと、
私は何度も通り過ぎてきた途でもあるから、
他の親子を見ていても、
気持ちの中まで分かることがよくある。
幼児が、すべり台の階段を昇った。
が、いざすべろうとすると、降りられない。
そんなことがある。
実のところ、うつぶせになって、
足から先に滑り降りるようにすると、
小さな子でも比較的怖がらずに滑ることができる。
が、
そのママさん、そういうことは考えにないらしかった。
「ほら。ママ、ここにいるよ。
ここで待っているから」
立ちすくむ我が子に向かい、すべり台の下から呼んでいた。
しかし、
子どもは依然として恐怖心にとらわれ、
どうしても降りようという覚悟はできなかった。
「どうして。ママがここで待っているから。
すべればいいことじゃないの」
ママは思う。
どうしてこんな簡単なことができないのかしら。
えてして、子どもが小学生になっても、
勉強について、そのように思うものらしい。
そして高学年になると、
そうしたことについて一切触れなくなっていくのだ。
やはり、無理だ。
子どもは、滑ることができない。
神は、このママさんよりは、
子どもたる私たちの心理をよくご存じである。
だから、「ここで待っているから。怖がることはない」と、
私たちを呼ぶにしても、私たちの信の無さを理解しているはずだ。
ただ私たち自身が、
この幼児のように、大丈夫なのにためらって怖がっているということを
認識したほうがよいということを、この公園の風景で感じた。
私は何度も通り過ぎてきた途でもあるから、
他の親子を見ていても、
気持ちの中まで分かることがよくある。
幼児が、すべり台の階段を昇った。
が、いざすべろうとすると、降りられない。
そんなことがある。
実のところ、うつぶせになって、
足から先に滑り降りるようにすると、
小さな子でも比較的怖がらずに滑ることができる。
が、
そのママさん、そういうことは考えにないらしかった。
「ほら。ママ、ここにいるよ。
ここで待っているから」
立ちすくむ我が子に向かい、すべり台の下から呼んでいた。
しかし、
子どもは依然として恐怖心にとらわれ、
どうしても降りようという覚悟はできなかった。
「どうして。ママがここで待っているから。
すべればいいことじゃないの」
ママは思う。
どうしてこんな簡単なことができないのかしら。
えてして、子どもが小学生になっても、
勉強について、そのように思うものらしい。
そして高学年になると、
そうしたことについて一切触れなくなっていくのだ。
やはり、無理だ。
子どもは、滑ることができない。
神は、このママさんよりは、
子どもたる私たちの心理をよくご存じである。
だから、「ここで待っているから。怖がることはない」と、
私たちを呼ぶにしても、私たちの信の無さを理解しているはずだ。
ただ私たち自身が、
この幼児のように、大丈夫なのにためらって怖がっているということを
認識したほうがよいということを、この公園の風景で感じた。