では、ツイッターに人はどうしてはまるのか。
そこには、必ずつながりの意識が生じる。
つながっているものを感じる。
人は社会的な動物である、などと
ギリシアの昔から言われていることを持ち出さなくても、
独りだけで生きていくのは実に困難なことなのだ。
 
しかし、それは擬似的なものである。
いわば、野球場で試合を見ている観客の
それぞれがどんなことを思っているのか、
吹き出しがいろいろ見える、という程度のものだ。
だが、人がどう思っているのかを知ると、
自分だけではないのだと安心するようなこともある。
 
テレビのクイズ番組でもよく出てくる。
「正解率○○%」、
これもそのような心理からくるのかもしれない。
ほかの人はどういうふうに見ているか、気になるのだ。
 
ツイッターだと、何かの成果をもたらすというものではなく、
その場でつながった人と擬似的な友人関係が成立するに終わる。
この空気は、良い面もあるが、悪い面もある。
沈みゆく客船の中で、
「みんなが飛び込んでいますよ」と言われると
喜んで飛び込むとされた日本人は、
この空気の中でどう行為するだろう。
 
ひとりひとりが自分の意見を呟いているように見えて、
実のところは、互いに顔色をうかがっているに過ぎないとすれば、
やはり持ち合わせた性質がものをいうということだろうか。
むしろ、バーチャルな連帯意識に頼るとなると、
現実感覚の点で強さを発揮することは期待できないとも思えるのだが。
 
このツイッターを象徴する高校生が代表のようにして、
流行語大賞のトップ10に輝いたのは、
今年のツイッターの拡がりを示していると言えよう。
生まれたときからネット環境のある世代になると、
このバーチャルが、現実だという感覚をもつことがあるかもしれない。
 
私は、哲学や宗教を
自分で開発した気になるこうした動きを懸念する。
戦前の神学の質の高さを佐藤優氏が指摘していたが、
情報量の莫大さが、思索を深めているとは
決して言えないことが、ここでも観察されるように思われる。