七五三。
元来、宗教的な由来が強くないと言われるが、
神社行事のようになってしまった。
子どもが、一定の年齢にまで成長するのは、
親の願いでもあった。
他方、そこに達する前に
この世から去らせられる子どもも多数あった。
いわゆる出生してから一人前の「ひと」であるという認識は、
必ずしも古くからのものではない。
民法でのように、懐妊のうちより権利を有するなどということも
おそらくなかったことだろう。
子どもは何にもまして宝だという万葉の歌もあるからには、
その逆こそが、よくあることだったと見ることもできる。
奇数を尊ぶ中国文化に基づいているのかもしれないが、
子ども本人は訳も分からず七五三を迎える。
そして、思春期に友だちと、
七五三ってあったよね、と懐かしい話をするかもしれない。
我が家ではついに七五三行事に参加することがなかった。
成長感謝をその代わりに教会で祝ってもらっている。
旧約聖書で、子どもあるいは孫を祝福する親の姿がある。
神に代わり祝福するという責任の重さ。
それがまた、親としての務め。
子どもへの願いと祈りは、
いつの世の親にも通じるものがあるだろう。
どこか負い目を覚えつつも。
元来、宗教的な由来が強くないと言われるが、
神社行事のようになってしまった。
子どもが、一定の年齢にまで成長するのは、
親の願いでもあった。
他方、そこに達する前に
この世から去らせられる子どもも多数あった。
いわゆる出生してから一人前の「ひと」であるという認識は、
必ずしも古くからのものではない。
民法でのように、懐妊のうちより権利を有するなどということも
おそらくなかったことだろう。
子どもは何にもまして宝だという万葉の歌もあるからには、
その逆こそが、よくあることだったと見ることもできる。
奇数を尊ぶ中国文化に基づいているのかもしれないが、
子ども本人は訳も分からず七五三を迎える。
そして、思春期に友だちと、
七五三ってあったよね、と懐かしい話をするかもしれない。
我が家ではついに七五三行事に参加することがなかった。
成長感謝をその代わりに教会で祝ってもらっている。
旧約聖書で、子どもあるいは孫を祝福する親の姿がある。
神に代わり祝福するという責任の重さ。
それがまた、親としての務め。
子どもへの願いと祈りは、
いつの世の親にも通じるものがあるだろう。
どこか負い目を覚えつつも。