高校授業の無償へと動きがある。
我が家は公立高校で、その恩恵を受けている。
他方、私立高校だと全額ではないから、
まだきつい家庭はあることだろう。
授業料滞納数そのものはさして減少していないらしい。
そもそもの困窮の度合いが激しいとなると、
わずかばかりの援助では間に合わないのかもしれない。
 
その該当する方々のことを言うつもりはないが、
私が常々不思議に思うことがある。
授業料は払えません、という高校生が、
携帯電話をそうとう使っている場合があることだ。
 
月に一万円などを携帯電話代として払っているが、
授業料は払えない、などという場合である。
電話代は払えないと直ちに止められるが、
授業料は教育の権利などと言って、
なんとか話がつくとでも思っているのだろうか。
 
「子どもを学校に行かせる」
こうした親の思いが、死滅しているようにも見える。
 
たしかに、携帯電話があるからこそ、
高校生は友だちとコミュニケーションがとれるという部分があるかもしれないし、
ないといじめに遭うなどという現実の前では、
なんとか持たせてやらないと、という思いが親の思いである場合も
ないとは言えない。
 
だが、学校とは何かと考えると、
それは本末転倒である、というのが、
古いかも知れないが、本来の捉え方であることは明らかである。
携帯電話などなくても、学校生活は、間違いなくできる。
鉛筆やノートがないのとは、訳が違う。
 
つまりは、学校に通い、卒業する、ということに
どういう意味を覚えているか、というところが問題なのだろう。
「学歴」をもたせることは大切だ、だから
「子どもを学校に行かせる」というのが
近代日本になってからの親の一つの願いではなかったか。
 
だが、いまや学校は、
携帯電話よりも格下である。
それだけ、個人の都合が優先するのかもしれないが、
私が感じるのは、
学校が、「行きたいところ」「行かせたいところ」ではなくなり、
「仕方なしに行かされるところ」だと考えられていることだ。
 
ちょうど、投票率が低く、
選挙が「仕方なしに行かされるようなところ」になっているのと
同様だ。
歴史の先人たちは、
普通選挙の実現のために、血を流して戦ってきたというのに。
 
学校。
そのあり方に問題がないとは言えない。
しかし、より問題なのは、制度ではなく、
それを受け取る私たち一般の人間たちの恩知らずな精神なのではないか。
ちょうど、会社を築き上げた2代目3代目の血族の経営者が
ぼんぼん育ちで会社を潰すことがあるように。
いや、何も血族経営がすべてそうだなどというわけでもないから、
これはひどく失礼な比喩であったかもしれない。
それはお詫びしよう。