文化の日。
もともと明治天皇の誕生日に合わせて
日本国憲法が公布された日に由来する。
しかし、そのような経緯はともかくとして、
近年の子どもたちの認識の違いには
時にがっかりさせられる。
 
社会科の授業で、
憲法の公布と施行の話になり、
当然の即答を期待して、私はこう尋ねた。
「5月3日は何の日ですか?」
すると、勉強熱心な六年生たちが、
「……」と沈黙なのである。
答えるのが恥ずかしいのではない。
本当に、知らなかったのだ。
 
祝日は、ボーナスのように(?)
イレギュラーで、恵みのたまものであった。
私たちは子どものとき、
年中の祝日を言えないなどということは考えられなかった。
憲法記念日も文化の日も、
意味は分からずとも名称は皆が知っていた。
 
そう言えば最近、一年の祝日の日付を
数字として続けて並べた数列を見せて、
この数列は何でしょう、というクイズを見たことがある。
月曜日に移動する仕組みが始まったせいもあるかもしれないが、
あのクイズも、子どもたちには未知の世界でしかなかったのだ。
 
知っているということは、
ある種の関心につながる。
人間、知らないことには関心の持ちようがない。
 
憲法とは。
文化とは。
そんなことが、自分との関わりの外に位置することになる。
 
世の中を動かす仕組みや力について、
このように関わりがない態度である者が多いとなると、
その人の数も投票や社会的意思の数字の中に含まれてしまうが故に、
一部の人間が随意に操ることへとつながるのだ。
「別にいいじゃん」では済まされない。
その人の権利が、悪意の人間に利用されることになりかねないのだ。
 
子どもたちが、やがて権利を有する大人へとなるとき、
やたらうざかった塾の教師がいた、ということが
何か思い出されるのであれば、本望だ。
それくらい、私は危機意識をもっている。
 
知らない。
考えない。
だが社会的権利があるとされる。
だから、その人の権利を、他者が奪ってしまうのだ。
 
言葉が思想ではなく情報として扱われるように完全になってしまうと、
行間を読もうとするような態度が古代人の化石的なものとなりかねない。
文化の滅亡への途を進んでいるような気がしてならない。