電車を日々使わせてもらっていると、
他山の石にしたいことがたくさん目に映る。
あれもまた、自分の姿なのだろうか、と
神妙な思いにさせられる。
 
ドアに背を向けて立つ人。
これにはいつも閉口する。
このたび、乗ろうとする私は完全にガードされた。
押しのけるだけの厚かましさも勇気も、私にはなかった。
その人の相方が気づいて避けさせてくれたのは幸いだった。
 
ドアに背を向けて立つ人。
つり革に掴まって立とうとする私は、
その人と顔を向かい合わせになる。
気まずいこと、限りない。
その人は、同じようには思わないのだろうか。
いや、自分以外の人間は、野菜か何かなのだろう。
他者を人間扱いしていないのかもしれない。
コミュニケーションをもとうという意志を失っているのか。
 
ドアに背を向けて立つ人。
駅でドアが開いて、降りる人がたくさんいるときも、
その場にじっと立っている。
降りる人にとり、邪魔であること限りない。
そういう立場に自分がいることにも、気づかないし、
おそらく気づこうともしない。
 
それは、電車の定時運行を妨げるものとなっている。
まさにその人のせいで、確実に運行が遅れる。
運転士はその分を途中でカバーしようとするかもしれない。
尼崎の脱線事故は、このことと無縁ではない。
 
そのことに、本人だけは、気づいていない。
ここに問題がある。
他人の悪いところは簡単に見つかるが、
自分の悪いところは全く認められない。
 
だから、私は最初に告白した。
あれもまた、自分の姿なのだろうか、と。
 
神の目から見れば、
人間はそうしたことを行ってきたし、行っている。
歴史が、それを教えている。
自分のしていることが、分からないでいる。
十字架の言葉は、廃ることがない。