満月も過ぎて、夜は星がきらめく。
冬のような冷たい空気は、
星座をくっきりと見せてくれる。
 
しかし、人間はこうした夜空を
すべて見渡せるものではない。
つまり、自然にしろ社会にしろ、
自分から見える景色というのは
ほんのわずかなものでしかない。
 
たとえて言えば、小さな竹筒を覗いて、
世の中を見ているようなものだ。
自分からは、小さな範囲しか見えやしない。
よその土地へ行くとか、新たな経験を増すとかして、
別の方向の空が時折見えることはあるのだが、
とてもとても、そら全体を見渡せるようなことはない。
その都度、小さな世界が見えているに過ぎない。
 
そこから見えたものが赤い星だったとしたら、
世界は赤い星で満ちている、と思いこむかもしれない。
流れ星が見えたとしたら、
世界中に流れ星がいつもじゃんじゃん現れていると信じるかも。
 
月がちらりと見えることがある。
だが、それが月というものであることすら分からない。
どこかにあったぞ、と探すが、なかなか見つからない。
いや、月なんぞが存在すること自体、気づかない人も多かろう。
 
夜の景色は、
この月の明かりの故にこそ、見ることができる。
だが狭い視野しかもたないと、
そういうことすら理解できない。
 
それどころか、月が視界に入らないと、
きれいな星空ばかりが見えるということになる。
この世は星で満ちている、と信じていたかもしれない。
星に見とれて、目を奪われて、
月などということには、思いもよらない可能性すらある。
 
だが、
月の明るさがあるからこそ、
私たちは世界が見えるし、世界は月明かりを反映している。
狭い視野から覗くような人間の現実は、
人間が自分を神とする愚かさを感じさせる。
本当は月の故に世界が明るく見えているのに、
そのことにさえ気づかない。
 
その上、世界が夜でもくっきりと見えるのは、
人間自身が発明した電灯のせいである、と思い違いをしている。
自分の力で世界を輝かせているのだ、と高慢になっている。
 
私が、どうして神の思いの全貌を語り得よう。
どうして聖書の意味を全部言い当てることができよう。
できるのは、ただ、
自分に与えられた視野を誠実に伝えること。
そして、
世界があの月の灯りの故に見えると信じること。
間違っても、
煌びやかな飾りにのみ没頭することがあってはならない。
 
暗い夜だからこそ、見えるものもあれば、
見えないものもあるのだ。
視野に入っていなくとも、つまりは目には見えねども、
存在する或るものに思いをつなげるならば、
多くの謎は解けるであろう。
 
だが、それはすべてなのではない。
そこのところだけは、境界線のように守らなければならない。
そして、夜空の情景が、
月明かりの中でそうだと確認できるようになるとき、
世界について知るあらゆるものが、
それでよいものとして、迫ってくることになるのだろう。