いずれにしても、
登録した公式記録、あるいは公式記録、
そういったものへの信頼が薄らぐことは確かである。
数字こそ、公平なもの。
数字こそ、証拠になる。
こういった信仰が、私たちの現代社会にはある。
 
膚での実感や洞察も、
数字の方が正しいから、と退けられることが多々ある。
 
科学一般を否定するようなことは戒められるべきであるが、
科学なるものも信頼がおけるものかどうか、怪しまれる。
少なくとも、科学は何故正しいのか、
実のところ科学の内部でそれを証明することはできない。
ゲーデルは数学の内部でもそれができないことを確認した。
 
神による創造がなくても宇宙の存在は説明できる。
一部の有名科学者たちが声を発した。
これに対して神の創造を信じる宗教者たちが、
戯言のような反応を返すのだろうかと期待した人がいるかもしれないが、
えてして健全なコメントが発表されていた。
 
数字や科学なるものへの信頼も、
一種の信仰である。
ギリシア語ならば、信頼も信仰も同じ語である。
日本語の聖書でも、「信仰」という訳が適切であるかどうかは分からない。
「信頼」のようなこともありうるのであって、
それで言語の基本意味である「信」でまとめてもよいのではないかと私は思う。
 
私たちは、様々なものに実は「信」を置いている。
殆どのものに対しては、絶対だと言うことはできない。
絶対視もできないし、絶対信もおけない。
神という、(万人の立場からして)ひとつの想定に対してでなければ、
数字に対しても、過大な信を置くことは、危険なのである。
 
それほどに、私たちは、数字に騙されやすいのである。