これはたんに私の感覚であり、感情であるかもしれないから、
大いに「ちがうよ」と言われても差し支えないのだが、
私はどうも自分で使いたくない言葉というものがある。
「聖書的」という言葉だ。
たぶん、書く上でも殆ど使っていないだろうと思う。
 
○○は聖書的である。(であろうか、でない……)
 
どういう意味で使われている言葉であるかというと、
たぶん、「聖書からすれば正しい」「聖書に則っている」
という感じではないかと思う。
「聖書に似ている」ではないだろう。
「聖書っぽい」というのでもない。
 
聖書をカノンと信ずる者同士での会話にしか出てこない。
そもそも聖書が正しい、という前提に立つ上での言葉である。
それはいいとして、
信徒のうちで、自分の考えや社会の現象などについて、
それは聖書に合っているかどうか、という判断をして使う言葉だ、
という点ではあまり異論がないだろうと思う。
 
つまり、直接聖書に書いてあるのではなく、
聖書といういわば法に合致しているという判断を、
発言者が下している言葉なのである。
聖書と現象や思想を結び付ける段階での言葉である。
だから、聖書的だというのは、
実はその事柄そのものに属する性質ではなくて、
事柄と聖書とを結び付ける、人間の側の判断のことなのである。
 
しかし、「聖書的」という言葉を発したとき、
その事柄に権威がつく。
それはいわば無条件で正しいという地位を得る。
地位を与えたのは、基本的に自分である。
 
私には、そのことが、
自分が神として判断しているかのように思えてならないのである。
 
(続く)