教え方が悪い教師のもつクラスが
良い成績を収めるということがある。
反面教師である場合もあろうし、
生徒が熱心に聞き取ろうと努めることがあるかもしれない。
理由は一様ではない。
もちろん、教え方の下手な教師のクラスが
常に、成績がよいという決まりもない。
 
教師は上手に教えるけれども、
クラスの成績がぱっとしないこともある。
果たしてそれを、教え方がうまいと表現してよいのかどうか分からないが、
十分過ぎるほどに正論を述べ
正統的な教師像を実現していても、
生徒の成績がそれに比例するというわけでないことは確かだ。
 
プロ野球の名選手が
必ずしも名監督になるわけではない、と言われるのと似ている。
しかしまた、かなりの成績を収める監督となる場合が
実のところ多いというのも本当である。
つまりは、成績のよくなかったケースが「目立つ」故に、
それが一般であるかのように錯覚されるのだ。
ちょうど、警官の犯罪が報道されると
すべての警官が犯罪に手を染めているかのように錯覚するのと同様だ。
 
だが確かに、
よい教示と教材が揃えば
それに比例して成績が向上するとは限らない、とは言える。
 
翻せば、このことは、
人間というものが如何に不完全であるか、を物語らないだろうか。
適切な方法や手段があれば必ず成果があるというのであれば、
完全な側面があることになるが、
原因結果が結びつかない自由度があるということは、
適切な原因が結果を呼ばない不完全さを遺すことになる。
 
人間が不完全であること。
そして人間に自由があること。
こういう点を露呈してしまうことになる。
それは、決して人間の汚点というわけではない。
だからまた、人間が決して神になってはいけないのである。
自らを神と詐称することが認められないはずなのである。