訳語が本来の語と
概念的に一致していないということは、
当然どの言語間にもあるだろう。
私たちは「自然」という訳語をもった。
しかしそれは元来、おのずからそうなること、を意味した。
文法的に自発と呼ばれるようなものである。
これは日本人の得意とするところであった。
それで、いつしか、自然を大切にするというフレーズも
日本人には肌に合うものと見なされてしまった。
自然の風景を描いてください。
そんな頼みを受けた日本人は、何を描くか。
これがしばしば、「ふるさと」の歌であるし、また、
田舎の田園風景である。
この自然観、おそらく殆どの皆さんは違和感がないだろう。
自然とはたとえばどういうものか。
田舎の田園風景。
待って戴きたい。
どう考えても、瓦葺き屋根も、田んぼも畑も、
人工のものであるはずだ。
人の手が入り、人の手により作られた風景なのである。
私たちが心象で語るとき、
感情で思いを述べるとき、
このように、言葉の意味や概念など、
まるで無視しているということがよくある。
自然概念は、そういう感傷的なものとは無縁である。
それは自然に対立するものでしかない。
自然はだから、もっと厳しいところもある。
長閑な、自分の心が落ち着くなどというものとは違うのだ。
概念や論理がすべてであるとは思わない。
だが、それ以上に、
言葉の意味を恣意的に扱う議論は、
結局立場の強い者を勝たせるためのものでしかないことを
はっきり了解しておかなければならない。
概念的に一致していないということは、
当然どの言語間にもあるだろう。
私たちは「自然」という訳語をもった。
しかしそれは元来、おのずからそうなること、を意味した。
文法的に自発と呼ばれるようなものである。
これは日本人の得意とするところであった。
それで、いつしか、自然を大切にするというフレーズも
日本人には肌に合うものと見なされてしまった。
自然の風景を描いてください。
そんな頼みを受けた日本人は、何を描くか。
これがしばしば、「ふるさと」の歌であるし、また、
田舎の田園風景である。
この自然観、おそらく殆どの皆さんは違和感がないだろう。
自然とはたとえばどういうものか。
田舎の田園風景。
待って戴きたい。
どう考えても、瓦葺き屋根も、田んぼも畑も、
人工のものであるはずだ。
人の手が入り、人の手により作られた風景なのである。
私たちが心象で語るとき、
感情で思いを述べるとき、
このように、言葉の意味や概念など、
まるで無視しているということがよくある。
自然概念は、そういう感傷的なものとは無縁である。
それは自然に対立するものでしかない。
自然はだから、もっと厳しいところもある。
長閑な、自分の心が落ち着くなどというものとは違うのだ。
概念や論理がすべてであるとは思わない。
だが、それ以上に、
言葉の意味を恣意的に扱う議論は、
結局立場の強い者を勝たせるためのものでしかないことを
はっきり了解しておかなければならない。