ところが、
この教会の危機にあって、
世間の人々は、
大相撲のようには応援をしてくれるわけではない。
牧師なる者が大変な騒ぎを起こしたときにも、
世間の誰も、熱く批判などすることがなかった。
週刊誌も、メディアも、殆ど黙殺した。
いや、そもそも注目すら、しなかったのだ。
応援してくれるからこそ、
熱く批判もしてくるものだとするならば、
大した批判もないということは、
キリスト教などこの世界に、
あってもなくてもいいのだ、という
世の中の回答であるかのようにさえ思える。
そのようにしか見られていないというのは、
寂しいことだ、と言うこともできる。
他方、
キリストもまた、そのようなお方だったのだ、とも言える。
世界を変えることになったイエスは、
時代の中で冷遇され、無視すらされ、
そして惨殺されたのだ。
外の世界の誰も批判してくれない、キリスト教世界。
だのに、批判のないことはいいことだと呑気に構えていやしないか。
いや、内部での批判など許さない、という体質はないか。
内部の信徒が、熱い思いで訴えることは、
このような状況の中で、
命をつなぐために最も大切なものであるかもしれないではないか。
たとえ批判をしたとしても、
それが神の霊からのものであれば、
いがみあったり、ただの喧嘩になったりすることはない。
平和裡に、益となる方向へ進むはずではないか。
それが、聖書を神のことばだと信じているということなのだ。
心ある熱い信徒の声を、
肉の思いにより退けるのではなく、
共に一つの霊のもとで
知恵を与えられるように祈ろうではないか。
この教会の危機にあって、
世間の人々は、
大相撲のようには応援をしてくれるわけではない。
牧師なる者が大変な騒ぎを起こしたときにも、
世間の誰も、熱く批判などすることがなかった。
週刊誌も、メディアも、殆ど黙殺した。
いや、そもそも注目すら、しなかったのだ。
応援してくれるからこそ、
熱く批判もしてくるものだとするならば、
大した批判もないということは、
キリスト教などこの世界に、
あってもなくてもいいのだ、という
世の中の回答であるかのようにさえ思える。
そのようにしか見られていないというのは、
寂しいことだ、と言うこともできる。
他方、
キリストもまた、そのようなお方だったのだ、とも言える。
世界を変えることになったイエスは、
時代の中で冷遇され、無視すらされ、
そして惨殺されたのだ。
外の世界の誰も批判してくれない、キリスト教世界。
だのに、批判のないことはいいことだと呑気に構えていやしないか。
いや、内部での批判など許さない、という体質はないか。
内部の信徒が、熱い思いで訴えることは、
このような状況の中で、
命をつなぐために最も大切なものであるかもしれないではないか。
たとえ批判をしたとしても、
それが神の霊からのものであれば、
いがみあったり、ただの喧嘩になったりすることはない。
平和裡に、益となる方向へ進むはずではないか。
それが、聖書を神のことばだと信じているということなのだ。
心ある熱い信徒の声を、
肉の思いにより退けるのではなく、
共に一つの霊のもとで
知恵を与えられるように祈ろうではないか。