つまりは、これら二つのタイプがあるということだ。
どちらの人生が優れているとか善悪といえるかとかいうことではない。
考え方や姿勢が違うのである。
 
しかし、互いに相手に対して不満をもつことはあるだろう。
たしかに、なんで金儲けをしようとしないのか、という不満もあろうし、
なんで曲がったことをして楽しいと言えるのか、と憤慨することもあろう。
様々な職業が世の中に必要であるように、
それぞれが世界を構成するために必要な要因である。
これを認め合うというのが、また一つの「愛」であったはずだろう。
 
どちらも、相手を必要としている。
とくに、前者が後者を必要としていることが、
しばしば見えにくいものである。
目に見えないものを追い求める後者が、
目に見えるものを追い求める前者には、
不毛のもののように思えるのだ。
 
驚くには当たらない。
古代ギリシアにおいて、哲学の祖と呼ばれるタレスは
世間の人々から笑いものにされていたのだ。
哲学なんぞやっているそうな。それで飯が食えるのかね、あはは、と。
そのときタレスは、天体の知識を利用して
一度、金儲けをして見せた。
やろうと思えばやれるのだ。だがそれを目的とするつもりはない、と言いながら。
実にカッコイイやり方である、とこれを見るか、
あるいは、じゃあその知識を金儲けに利用すればいいのに、と非難するか、
それもまた、タイプの別であるのかもしれない。
 
なかなか、これらは噛み合いそうにないのだろうか。
みんなちがって、みんないい、と
教育のことを考えながら金子みすゞをほめちぎる人々も、
実生活になると、
ちがうのは怪しからん、と
自分のほうだけが正しいと主張してならない様子も目の当たりにする。
みすゞこそまた、真実を見つめようとばかりしていたわけで、
そのことも短命に関係するかもしれないと思うと、
人間はもしかすると、
歴史というものからあまり学ぼうとしないものなのかもしれない、と
ちょっと暗い気持ちになる。