絶対の平和を実現しなければならない。
あらゆる戦争は放棄するしかない。
 
このような主張は、実に美しい。
他方、そんなありえないことをしているときに
現実に自分がやられそうになったら、抵抗しないのか、
そんなふうに反論してくる人々がいる。
 
攻撃されて守らないわけにはゆかない。
そのためには相手を攻撃しても当然である。
 
他方、もし戦争が起きたら、と想定し
人々をどう救助するか、
無秩序に人を傷つけないように働きかける、
そういう態度を貫こうとする人々もいる。
 
戦争が悪か必要かなどという議論をするのでなく、
目の前にいる戦争の被害者をどう助けるかに目を落とす。
それは、両極端なグループから見れば、
中途半端であるように見えるかもしれない。
曖昧で何のポリシーもないように見えるかもしれない。
 
だが、これは現実における最善の手段であるかもしれない。
ただの理想論を描いて心清らかな気持ちになっているのではない。
戦争をすることが正義であるとなんとか理論づけようとするのでもない。
 
現に傷ついている人を救う。
淡々とそれを続けていれば、
いずれそれを理論化してくれる人が現れるかもしれない。
ただとにかく、その怪我人が死ななくてよいように動く。
黙々と、困った人を助ける。
 
キリストも、いわばそのように教えを垂れるために来られたのではないだろう。
ただ黙々と助けるのだ。
助けられた人が、イエスをどう思うか、そこが一つの鍵である。
 
自分だけが思い描く平和世界を唱えても、
現実に戦力を調えよと信じ切っていても、
どちらにせよ、争いを始めることになるだろう。
 
さしあたり、できることをしよう、という提案がある。
現実的過ぎるかもしれないが、
極めて常識的で、そして生温いかのように見えがちなのだが、
そこに傷ついた人がいて、それを助け、
同様に傷つく人を新たに生みたくない、という思いで奔走する。
 
しないより、した方が、ずっといい。