キリスト教会で一般に使用される聖書には、
「新共同訳聖書」と「新改訳聖書」がある。
その他のものも、ないわけではないが、
一定の水準と信頼性から、
そしてできるだけ新しいもの、となると
この二つが多いと見てよいだろう。
もとより、これらは翻訳である。
聖書の原版としても、写本上の選択がありうるが、
訳語や翻訳としても、それはそれは多々なる解釈があることだろう。
聖書は誤りなき神の言葉、という信仰があるにしても、
聖書の翻訳物が誤りがない、とまでは言えないはずである。
そこで、研究上の修正や
時代による適切な語彙の選択などの問題を含め、
時折全面改定が行われることになる。
30年ほどで大改訂がなされてきた経緯から、
日本聖書協会は、新共同訳に代わる聖書(仮称「標準訳聖書」)を計画し、
それが動き出している。
新日本聖書刊行会は、新改訳聖書の改訂を計画している。
どちらも、2016年の完成を目指しているという。
後者は、いわゆる福音派の手によるもので、
どちらかというと、信仰を護ろうとする意図が強い。
できるだけ、聖書というものを、神を信仰するためのもの、という理解で
編集を司っている。
前者は、この新共同訳(正確には新約のみの共同訳というパイロット版があった)から、
プロテスタントとカトリックの共同作業により成立している。
学術的に一定の基準を置いて翻訳されているが、
もちろん誤訳もあるのと、
カトリックの解釈を優先して脚色している部分がかなり目立つ。
戦後に急遽作成された観がある、いわゆる口語訳聖書は、
新共同訳の前身となるものだが、
英語訳を相当部分で参考にしており、
ヘブル語やギリシア語から丁寧に起こしたのではない可能性がある。
その前には、いわゆる文語訳聖書というのがあった。
格調高い日本語として、今なお定評があるが、
現代語として使用しにくいのと、
やはり研究上の時代的制約を免れない。
いわゆる岩波訳と呼ばれる、
非常に聖書研究の出版が多くなった岩波書店において
編集・制作された聖書もある。
大胆な編集と訳とで、最新の研究を多く取り入れているが、
如何せん奇を衒うあまり、
日本語自体の怪しさがつきまとう。
個人訳の限界であろうか。
(続く)
「新共同訳聖書」と「新改訳聖書」がある。
その他のものも、ないわけではないが、
一定の水準と信頼性から、
そしてできるだけ新しいもの、となると
この二つが多いと見てよいだろう。
もとより、これらは翻訳である。
聖書の原版としても、写本上の選択がありうるが、
訳語や翻訳としても、それはそれは多々なる解釈があることだろう。
聖書は誤りなき神の言葉、という信仰があるにしても、
聖書の翻訳物が誤りがない、とまでは言えないはずである。
そこで、研究上の修正や
時代による適切な語彙の選択などの問題を含め、
時折全面改定が行われることになる。
30年ほどで大改訂がなされてきた経緯から、
日本聖書協会は、新共同訳に代わる聖書(仮称「標準訳聖書」)を計画し、
それが動き出している。
新日本聖書刊行会は、新改訳聖書の改訂を計画している。
どちらも、2016年の完成を目指しているという。
後者は、いわゆる福音派の手によるもので、
どちらかというと、信仰を護ろうとする意図が強い。
できるだけ、聖書というものを、神を信仰するためのもの、という理解で
編集を司っている。
前者は、この新共同訳(正確には新約のみの共同訳というパイロット版があった)から、
プロテスタントとカトリックの共同作業により成立している。
学術的に一定の基準を置いて翻訳されているが、
もちろん誤訳もあるのと、
カトリックの解釈を優先して脚色している部分がかなり目立つ。
戦後に急遽作成された観がある、いわゆる口語訳聖書は、
新共同訳の前身となるものだが、
英語訳を相当部分で参考にしており、
ヘブル語やギリシア語から丁寧に起こしたのではない可能性がある。
その前には、いわゆる文語訳聖書というのがあった。
格調高い日本語として、今なお定評があるが、
現代語として使用しにくいのと、
やはり研究上の時代的制約を免れない。
いわゆる岩波訳と呼ばれる、
非常に聖書研究の出版が多くなった岩波書店において
編集・制作された聖書もある。
大胆な編集と訳とで、最新の研究を多く取り入れているが、
如何せん奇を衒うあまり、
日本語自体の怪しさがつきまとう。
個人訳の限界であろうか。
(続く)