3月下旬に展開した「幸せとは?」の補足です。
メールを下さった方は、
ご自分が幸せに満ちている中で、
親しい方の身の上に、
望ましくないことが次々と起こることを見つめていました。
自分はこんなに幸せでよいのだろうか、と
気にしていらしたのです。
優しい方なのです。
普通なら、自分の幸せを喜ぶところなのに。
だって、人は、自分が幸せになりたい、と
それを第一に考えるのが常ではありませんか。
他方、
自分が幸せであることに気づいたとき、
「今度はきっと悲しいことが起こるのだわ」と
心配するという人もいます。
人生にはいろいろなことが起こることを考えると、
今の喜びは、
次の悲しみにつながっていくものと考えられるというのです。
いずれにしても、
自分の状態を、幸せだ、と感じているのです。
ところが、これらの方々は、
決して富裕層でもないし、地位や権力があるわけでもありません。
なんの目立つこともない、普通の暮らしの方々。
いえ、社会的には貧困層に属し、健康に不安を抱える人も、
自分は幸せだ、と考えてやまないとすれば……。
自分を「幸せ」と見ることのできる、
そのこと自体が、幸せであるのかもしれません。
だとすれば、
どんな境遇の中にある方でも、
「あの人は不幸だ」と見つめることが、
時に失礼にあたるかもしれません。
自分を幸せと感じているその方が、
他人から、不幸ですね、と言われたら、
あまり気持ちのよいものではないでしょう。
また、事実と違う、と思うことになるかもしれません。
人は、自分は不幸だ、と嘆くばかりでは
生きる力、前進する力を失ってしまいます。
ここに小さな幸せがある、と何かを見出して、
それを基にして、歩み出す力を得ることがあります。
この子の笑顔があるから、頑張れる、と
それだけで働きに出ることもあるでしょう。
ほかの誰かを「不幸」と決めることなしに、
その方の見出す「幸せ」を
尊重し、尊敬し、できれば
共に喜ぶことも、できようかと思います。
幸せだと自覚する自分が、
見た目が不幸なその人に何かをして「あげる」というふうなことでなく、
かといって、
もしかすると妬まれかねない自分の境遇をふりかざすようなこともせず、
「共に」というところで
幸せを喜ぶことができるなら、どんなにすばらしいでしょう。
それは、人間にはもちろん難しいことです。
相手の方が、感情的に受け容れてくださるかどうかという問題もあります。
どう見ても嫌味なあたりかたを、こちらがしてしまうかもしれません。
その点、改めて思うのです。
ナザレのイエスは、
いわゆる不幸な境遇にあるすべての人に、
妬まれることなく、「共に」ある人だと認められていた、と。
イエスを妬んだのは、律法学者や祭司長などでした。
自分の弱さを知り、救いを求める人からは、
イエスは慕われ、友と見られたのです。
あのような真似は、生身の人間である私たちには、できないでしょう。
ですが、どんな「不幸」にある方に対しても、
この「イエス」という方だけは、
近づき、寄り添い、癒すことができるのです。
だからこそ、イエスは二千年の間、
どんな境遇の人にも、信じられてきたのです。
「私」は、そのお友だちを慰めたり、助けたりすることは
できないかもしれません。
そのとき、「イエス」なら、それができること、
真実は、そこのところにあるだけ……。
そんなふうに、私は思い描いています。
メールを下さった方は、
ご自分が幸せに満ちている中で、
親しい方の身の上に、
望ましくないことが次々と起こることを見つめていました。
自分はこんなに幸せでよいのだろうか、と
気にしていらしたのです。
優しい方なのです。
普通なら、自分の幸せを喜ぶところなのに。
だって、人は、自分が幸せになりたい、と
それを第一に考えるのが常ではありませんか。
他方、
自分が幸せであることに気づいたとき、
「今度はきっと悲しいことが起こるのだわ」と
心配するという人もいます。
人生にはいろいろなことが起こることを考えると、
今の喜びは、
次の悲しみにつながっていくものと考えられるというのです。
いずれにしても、
自分の状態を、幸せだ、と感じているのです。
ところが、これらの方々は、
決して富裕層でもないし、地位や権力があるわけでもありません。
なんの目立つこともない、普通の暮らしの方々。
いえ、社会的には貧困層に属し、健康に不安を抱える人も、
自分は幸せだ、と考えてやまないとすれば……。
自分を「幸せ」と見ることのできる、
そのこと自体が、幸せであるのかもしれません。
だとすれば、
どんな境遇の中にある方でも、
「あの人は不幸だ」と見つめることが、
時に失礼にあたるかもしれません。
自分を幸せと感じているその方が、
他人から、不幸ですね、と言われたら、
あまり気持ちのよいものではないでしょう。
また、事実と違う、と思うことになるかもしれません。
人は、自分は不幸だ、と嘆くばかりでは
生きる力、前進する力を失ってしまいます。
ここに小さな幸せがある、と何かを見出して、
それを基にして、歩み出す力を得ることがあります。
この子の笑顔があるから、頑張れる、と
それだけで働きに出ることもあるでしょう。
ほかの誰かを「不幸」と決めることなしに、
その方の見出す「幸せ」を
尊重し、尊敬し、できれば
共に喜ぶことも、できようかと思います。
幸せだと自覚する自分が、
見た目が不幸なその人に何かをして「あげる」というふうなことでなく、
かといって、
もしかすると妬まれかねない自分の境遇をふりかざすようなこともせず、
「共に」というところで
幸せを喜ぶことができるなら、どんなにすばらしいでしょう。
それは、人間にはもちろん難しいことです。
相手の方が、感情的に受け容れてくださるかどうかという問題もあります。
どう見ても嫌味なあたりかたを、こちらがしてしまうかもしれません。
その点、改めて思うのです。
ナザレのイエスは、
いわゆる不幸な境遇にあるすべての人に、
妬まれることなく、「共に」ある人だと認められていた、と。
イエスを妬んだのは、律法学者や祭司長などでした。
自分の弱さを知り、救いを求める人からは、
イエスは慕われ、友と見られたのです。
あのような真似は、生身の人間である私たちには、できないでしょう。
ですが、どんな「不幸」にある方に対しても、
この「イエス」という方だけは、
近づき、寄り添い、癒すことができるのです。
だからこそ、イエスは二千年の間、
どんな境遇の人にも、信じられてきたのです。
「私」は、そのお友だちを慰めたり、助けたりすることは
できないかもしれません。
そのとき、「イエス」なら、それができること、
真実は、そこのところにあるだけ……。
そんなふうに、私は思い描いています。