話は変わるが、ろう者と聴者の文化の違いの一面として、
友だちという概念があると聞いた。
ろう者は、知り合ったそのときに友だちになりやすく、
互いに相手を友だちと呼ぶ。
しかし聴者は、ガードを置き、当たり障りのない話をするのがせいぜいで、
何ヶ月もしてからようやく心が開かれて友だちという関係になるのだ。
 
言葉の上からも、聴者は、やたら気遣いが多く、
相手の気分を害しないように気を払いながら
じわじわと言いたいことを分かってもらえないかと思いつつ
言葉を差し向けていくのだという。
ろう者は、そんな面倒くさいことはせず、ストレートである。
コミュニケーションの中で、
互いに気を遣い探り合うようなことをするのが無駄だと感じているかのように。
 
人と関わるためには、確かにエネルギーを要する。
人を傷つけないように優しくする、という弁明もあるが、
私はどうも違うような気がしてならない。
他人ではない、自分を傷つけないように、関わらないのではないか、と思うのだ。
 
子どもを虐待するというのは、特殊な例である。
一般化はできない。
だが、そこにも、この原理がはたらいていることは予想されないだろうか。
 
もちろん、虐待は昔もたくさんあっただろう。
昔は子殺しももっと多かったのではないかと思われる。
ただ、背景や質といったものが、
昔と同列には見られないものになっているように感じられる。
 
子どもが他人に責められることが、
親としての自分を傷つけることになると、猛烈に怒る。
他方、子どもを自分が傷つけることについては、
著しく無頓着になっていることがある。
このアンバランスというか、
自己正当化の原理が、
だんだん支配するようになってきてはいないか、と危惧するのである。
 
こんなふうにして、
人の心に関わろうとする私のことがまた、
一言「うざい」で片付けられるのは、
私は別に構わないにしても、
それさえも、この原理に基づいているとすると、なお恐ろしい。