自分が相手にあることを禁じておき、
自分がその手を使う。
これを、卑怯と呼ぶことができよう。
 
自分の心の中がぽろりと外に出たことを、
自分の良心の問題などとしてごまかそうとする。
これを、偽りと呼ぶことができよう。
 
私は、弁解を人前でしたくないと思っている。
それは、幾多の損を生み出してきた。
また、相手の卑怯や偽りについては、
妥協をするつもりは全くない。
それさえも寛容に対処することが
たとえ「和解」であり「許し」であるのだとしても。
 
だからまた、今日も損をするし、
孤独にならざるをえない。
 
卑怯や偽りを良しとする者たちが、
一時的に集まって仲間をつくり、
一時的な結束のもとに、
孤独な者を糾弾する。
それが世の常である。
 
少なくとも、聖書がそれを証言している。
そして、現代も、「いじめ」という形で
それは平気で行われている。
「平気」だというのは、
ご本人たちはそれを「いじめ」だと認識していないからである。
 
聖書はたとえば詩篇でしばしば、
昨日までの友が、同胞が、
そのような敵になる事実を明らかにする。
 
今日は受難日。
キリストの十字架もまた、
そのような流れの中に確かにあった。
 
十字架だけを見つめるというのは、
そういう信じ方をいうのかもしれない。