ところが、です。
これまで考えてきたときに使っていた
「幸福」や「不幸」といった言葉は、
私たちの側の感覚で使うものでした。
時に、気の持ちようのようなことで計られる、
幸福感がそこに反映されていました。
 
それが聖書では、何と書いてあったでしょうか。
「幸いなるかな……」
こういった者は幸いだ、とイエスは言いました。
 
私の側での気分や感覚とは違います。
明らかに、
悲しむという、自分ではおよそ幸福だとは考えていないようなところに、
イエスは幸いだと指摘してきました。
虐げられ、低いところで喘いでいる人々を
そのままに受け止めて、高く挙げるという約束をイエスはしました。
そのときに、「幸いだ」と告げたのです。
 
これは、神の側の幸福感とでも言いましょうか。
私たちの側の、満足や不満のことではありません。
もはや私たちの気分にさえも左右されない、
神の側からの恵み、神のイニシアチブに基づく未来が
そこに用意されているというのです。
 
私たちの感じる幸福というものが、
まさに私たちのひとりよがりのものでしかない、
そんなことがあるかもしれない、ということです。
しかし私たちは非力です。
自分の思いのままに世界が成り立っているわけではないからです。
神の与える幸いは、人の思う幸いとは違うことがある、と
聖書はつねに突きつけています。
また、それは限りないパワーをもつ
慰めともなっているのです。