名前はもう報道されているから
ことさらに出すことはしないでおく。
 
華やかに始まった春の高校野球大会の中で、
大きなニュースになる出来事があった。
 
「21世紀枠に負け末代までの恥」などと報道されていたが、
実際はそれに加えてかなりの発言が公になっていた。
自分の発言が全国に響くということに
思いが向かわなかったのであろう。
また、そのような現場にある人が、
自分と反対の立場にある人にどう聞こえるか、などの配慮は
なかなか求められるのではないのかもしれない。
 
勝った、勝った、と喜ぶ者に、
敗者もそれを聞いていることを知れ、などとは言えないものだ。
しかしこの場合、
負けた側の発言である。
そして、相手を見下した意味に響くことは否めない。
 
反省はしているようなので、
決してこの発言者を集団で叩きいじめるようなことは
したくないものだと思う。
だが、この個人以上に、
もっと深刻なものをこの発言事件は残したと考える。
 
それは、この「21世紀枠」という制度に潜む
構造的な偏見の存在を明確にしたことである。
強いから出場したのではない、彼らは
弱いけど出場させてやっているのである、という偏見である。
 
受験でも、推薦入試その他別枠の入試制度がある。
いわばこれと同じことであるのだが、
受験の場合には、それほど大きな偏見とはなっていないように見える。
それが、高校野球大会の場合には、
かくも激しい偏見となって存在していたのだ。
 
そもそも選抜大会というもの自体、
審査による出場なのであるから、
夏の大会のように分かりやすい勝ち抜きという方法によるのではない。
どちらが強いか判然としない中で
総合的に、というのはつまりいくらか曖昧な基準によって
出場校が決定される。
そこで「21世紀枠」というものもありうるわけだ。
それなのに、なおかつ、
勝負に対して偏見が存在している事実を
この発言事件はあぶりだしてしまったのだ。
 
だから、
大会を見守る全国の人々に、
重い気持ちを与えてしまった。
この発言者だけではない気持ちが
表に出てしまったからである。


[追伸]
その後、この高校の監督は
21世紀枠を侮辱するつもりはなかった、と言い、
自分の悔しい気持ちを出してしまった旨を告げて泣いたそうだ。
また、この高校の校長はすぐさま
対戦相手のその21世紀枠の高校を訪ね
失礼な発言をしたこと、不快な思いをさせてすまない、と詫びたという。
 
この校長の行動と発言は、適切であった。
それに引き替え、この監督の弁明は、
子どもの言い訳を積み重ねてしまうだけとなった。
相手の心情を思いやることをこそ、謝罪と言う。
自分の都合を説明するのは、ただの言い訳なのである。
 
政治屋でも宗教屋でもそうだが、
私たちが聞いていて不愉快になるときは、
たいてい後者の言い訳の場合であると言えるのではないか。