教会員の男性たるものが、
えてして、なよなよとしたお人好しであるというのは、
一般教会の定番的理解であった。
乱暴者はお呼びでない、というのである。
それはそれで、別によい。
何も、いかつい恰好が男性であるというわけでもないし、
狼藉めいたものが教会でまかり通るのがよいわけでもない。
ただ、
右の頬をぶたれるときには左の頬をも向けよ、とか
敵を愛せよ、とか言われると
何をされてもにこにことして耐えることこそ
キリスト者のするべきこと、と決めつけるのは、どうだろうか。
イエスは、福音書で、どうしているだろうか。
ファリサイ人たちの攻撃に際して、
知恵を以て答えて言い負かしていることがある。
命を狙われれば、逃げている。
まだ律法学者たちに責められてもいないのに、
彼らの悪口をふんだんに言い広めてもいる。
果ては、ただ神殿に入って目に入った風景に怒り、
露店をぼかぼか壊してまわったこともあった。
およそ、左の頬を向けよ、とか
敵を愛せよ、とか
言った本人とは思えない行動をとっている。
私は、パウロその人を崇めることはしないし、
福音書記者を神格化するようなことはしない。
それらは、すべて人間である。
神の使命を負ったには違いないが、
彼らそのものは人間である。
だが、イエスを
そのように扱うことは抵抗する一人である。
私は、その点は徹底したキリスト教徒である。
イエスを弁明するつもりなどない。
だが、その行為に意味があり示唆するものがあることは
誰に何と言われても譲らない。
私が弁神論などをするつもりはないが、
私は、そこに神の意図を感じるべきだと捉えている。
無力で無抵抗で、
頬を殴られてもへらへらとしていることが
クリスチャンだ、という意見には、私は従えない。
かといって、戦闘的にするべきだ、と構えるのも趣味ではない。
私は、自分が正しいと言い切ってしまうことはしないが、
怒るときには怒りたい。
怒れないときも、ある。だが、
怒りそのものを罪だと直結することはしたくない。
同時にまた、
自分の怒りを正当化するつもりはまた、ない。
この辺りが、
聖書を信じていない人にとっては、
理解不能であるかもしれないけれど。
えてして、なよなよとしたお人好しであるというのは、
一般教会の定番的理解であった。
乱暴者はお呼びでない、というのである。
それはそれで、別によい。
何も、いかつい恰好が男性であるというわけでもないし、
狼藉めいたものが教会でまかり通るのがよいわけでもない。
ただ、
右の頬をぶたれるときには左の頬をも向けよ、とか
敵を愛せよ、とか言われると
何をされてもにこにことして耐えることこそ
キリスト者のするべきこと、と決めつけるのは、どうだろうか。
イエスは、福音書で、どうしているだろうか。
ファリサイ人たちの攻撃に際して、
知恵を以て答えて言い負かしていることがある。
命を狙われれば、逃げている。
まだ律法学者たちに責められてもいないのに、
彼らの悪口をふんだんに言い広めてもいる。
果ては、ただ神殿に入って目に入った風景に怒り、
露店をぼかぼか壊してまわったこともあった。
およそ、左の頬を向けよ、とか
敵を愛せよ、とか
言った本人とは思えない行動をとっている。
私は、パウロその人を崇めることはしないし、
福音書記者を神格化するようなことはしない。
それらは、すべて人間である。
神の使命を負ったには違いないが、
彼らそのものは人間である。
だが、イエスを
そのように扱うことは抵抗する一人である。
私は、その点は徹底したキリスト教徒である。
イエスを弁明するつもりなどない。
だが、その行為に意味があり示唆するものがあることは
誰に何と言われても譲らない。
私が弁神論などをするつもりはないが、
私は、そこに神の意図を感じるべきだと捉えている。
無力で無抵抗で、
頬を殴られてもへらへらとしていることが
クリスチャンだ、という意見には、私は従えない。
かといって、戦闘的にするべきだ、と構えるのも趣味ではない。
私は、自分が正しいと言い切ってしまうことはしないが、
怒るときには怒りたい。
怒れないときも、ある。だが、
怒りそのものを罪だと直結することはしたくない。
同時にまた、
自分の怒りを正当化するつもりはまた、ない。
この辺りが、
聖書を信じていない人にとっては、
理解不能であるかもしれないけれど。