有名な譬えである。
これまでもいくらもメッセージで聞いてきたはずである。
まずは自分でどの程度知っていたか、自分に考えさせてみるとよい。
ありきたりの、人から伝え聞いた程度の理解しかないことに驚く。
 
聖書は、自分で読むものではなかったのか。
人が読んだその物語を鸚鵡返しにして、何が聖書ぞ。
自分がイエスと出会ったのではなかったのか。
 
ユダヤの祭司たちは、
瀕死の同胞を見て見ぬふりをして捨てた。
ユダヤ人に嫌われていたサマリヤ人が助けた。
隣人になったのは誰か。
永遠の命のためには、あなたもそのようにするとよい。
 
サマリヤ人はいい人だね。
ユダヤ人は自己中心だね。
人助けをしましょう。
 
聖書は、そんな道徳の授業をしているだけなのか。
その程度のものが聖書だというのか。
 
サマリヤ人とは例えばエホバの証人だ、としたらどうだろう。
クリスチャンが日頃嫌っている、
あいつは異端だ、というレッテルを貼られた人々。
たしかにエホバの証人は、聖書の理解が違うし、別の聖書を用いている。
いわばサマリヤ人も、そうであった。
サマリヤ五書に頼り、違う解釈をしていた。
ユダヤ人たちは、サマリヤ人たちを嫌っていた。
 
そこへイエスが、
りっぱな神学者、りっぱな伝道者が
瀕死の同胞を見捨てて通り過ぎ、
エホバの証人の人が助けた、という話をした。
イエスは、「誰が正しい聖書理解をしていたか」とは訊いていない。
「誰が隣り人となったか」と訊いたのである。
クリスチャンは、恥ずかしいやら憤るやらで、
エホバの証人だと口で言えず「助けた者だ」とだけ答えた。
するとイエスは、「あなたもそのようにせよ」と言った。
そうすれば、永遠の命を与えられるであろう、と。
 
聖書理解や教義で争う必要はない。
何が欲しいのか。永遠の命か。
では神の愛に生かされている、という生き方をしてみなよ。
 
サマリヤ人などという、
現代の私たちからすると、
何の切迫感もない存在を持ち出すから、
私たちは、そんな人助けくらい軽くできそうだ、と思ってしまう。
だが、持ち出されたイエスの話では、
私たちが言葉に詰まるような相手の話であったのだ。
ここではエホバの証人さんに登場して戴いた恰好になったが、
統一協会の人でもいいし、モルモン教でもいい。
(これらの団体の方は、逆に一般のクリスチャンを登場させるといい。)
そうした人が、旅人を助けた、とイエスは語ったのだ。
だから、質問者は返答に窮したのである。
私たちも、絶句するような立場に置かれて初めて、
イエスの指摘の鋭さが分かるかもしれない。
 
聖書の読み方は、そんなふうに生きたものであるべきだと思う。