この私などが最たる例なのだが、
自分の誤りを認めるということほど、
難しいものはない。
 
なにせ、判断する主体が「私」であり、
誤っていると認識される客体も「私」なのである。
これは、パラドクスの世界に陥る。
ラッセルのパラドクス自体、歴史的にごく浅いものなのだから、
人類はこの構造にさえ、気づいていなかったのだ。
気づかないと言うのは言いすぎだが、分析しなかったのだ。
いや、たぶん分析できなかったのだ。
 
自分に見えるものは確かなもの。
デカルトではないが、そこから出発するしかない。
自分でよく分からないものをベースに思考を開始することはできない。
だから、自分に見えているものを否定することはできないのだ。
 
「思い込み」というものがある。
これは、他人から見れば明らかな誤りである場合である。
だから周囲の多くの人に、違うよ、と指摘される。
それを受け容れるならば、その人は誤りから抜け出せる。
それは精神的に辛いことであるわけだが、
誤りを信じたまま進むそれ以後の悪夢は避けることができる。
幸運な歩みに戻れるというわけだ。
 
怖いのは、集団での思い込みだ。
同じ誤りを、近しい数人で抱いてしまった場合である。
互いに「そうだよね」と誤りを強め合うものだから、
どうにもその虚偽から抜け出せない。
仮に、何かおかしいと気づき始めても、
人間関係の故にそれを否定できない状態になる。
良心のある人であれば、板挟みつまりジレンマに苛まれることになる。
 
集団幻想は、
実のところ全うな個人を責め立てる。
いくらその主張が誤解であっても、理不尽であっても、
集団の声は、いわば暴力となって一つの力に集約されていく。
 
そう。
「十字架につけろ、十字架につけろ」という群衆の声である。
 
あれは、新約聖書の中でのみか、と思っていた。
もちろん、旧約聖書の中でも、
とくに預言者が度々そういう目に遭っている。
イエスの話の中で、神に遣わされた預言者が
いじめられることについてのものもよくある。
 
しかし、現実に、今この日本においても、
おそらく普通によくあることなのだ。
それは日本人の歴史の中に、時折現れている。
ムラ社会と言われもする。
とくに女性集団の中で頻繁に起こるシマづくりもそうだろう。
 
私も、巻き込まれたのだ。
まことに、イエスが、あの狂った怒号の中で
どんなお気持ちであったのか、
垣間見るかのようであった。
「あわれみ」という言葉が頭を過ぎった。
 
彼らは自分で何をしているか、分からないでいるのです。