トイレで音を消す商品が話題になっている。
まわりへの配慮、思いやりなのだともいう。
やさしい世代、思いやりの重なりが、
自分の意見を言わない消極的な若者のあり方でもある、などと。
 
このあたり、端折らないと本題に入れないので、
舌足らずな部分は、ご勘弁。
 
だが、配慮などというが、
日本人の社会構造の中で
「世間」の部分への配慮を重視はするが、
その外の「他人」へは配慮をまるでしない、
そういう分析は、今も同じなのではないか。
 
電車で、依然として耳から音を漏らして
平然とする輩はいくらでもいる。
電車で、大声で話しまくる人も絶えない。
ケータイで話す人も、なくならない。
 
福岡が田舎だから?
東京などは、もっと交通マナーがよいとも聞く。
互いに配慮する社会生活が習慣づいているのだろう。
だから、東京あたりでは「世間」が
外延を拡大していると言えるのかもしれない。
 
「世間」というものはくせ者だが、
「他人」に恥をかきすてる以上「他人」がいなくなるなら、まだいい。
「世間」に対して「恥」を見出すという文化は、
それ自体を非難する必要はないだろう。
ただ、昨日考えたように、
「世間」は「みんな」という言い方で済ませているのが実情だから、
読むべき空気もまたそこに限定されるのは間違いない。
 
世界を創造した神の下には、
逃れられる被造物はないのであるが、
空気を読むべき「世間」は
都合によって、いくらでも伸縮できる。
それを加減するのが、時の権力者と言えるのかもしれない。