手話を始めようとした動機はともかくとして、
少しでも続けていこうとなると、
それまで見えなかったものが見えてくるようになる。
目が開かれていく、とでも言おうか。
それは、
これが異文化理解だということに気づくということだ。
ろう者は、どうかすると厚かましく見えることがあるようだ。
自己主張が激しいとか、遠慮を知らないとか。
先日の、裁判所で手話通訳者を付けてもらえなかった女性が、
裁判所を出るときに、裁判所のことを「嫌いになった」と
いわばずけずけと知らせた点も、
人によっては、図々しい態度だと見えたかもしれない。
私も偉そうに、
その背景がどうだなどと述べる資格はない。
ただ事実として、
そういう、言わねばならぬことはその場で言う、というのは
ろう者に比較的当然と見られている態度である点は、分かる。
考え方や捉え方が、かなりストレートで、はっきりしているのだ。
その点、よい比較かどうか知れないが、
アメリカ人がずばずば自分の意見を言うとか、
韓国人が自分の主張が強いとか、
そういうのとむしろ近いように感じるのだ。
同じ日本語だから、
日本語を手話に置き換えていけば伝わるのだ、
そんな甘い態度が幻想であることが、分かってきた。
それはやはり、
日本語を英語に置き換えれば伝わる、と
安易に考えてだんだん英語が分からなくなっていった
昔の私と同様なものであろうかと思う。
つまり、言葉や表現だけで十分伝わるということはありえない。
違う考え方、違う発想、要するに異文化を理解しようとすべきなのだ。
相手はどういう立場や背景からそう言っているのか、
それを違う文化の自分はどう受け取ればよいのか、
そんなことを絡ませながら、
コミュニケーションがなされていくというのが実情なのである。
それを、英語でハンバーガーが買えた、などと言って
無邪気に喜んでいる英語学習者が空しいように、
手話でろう者と話ができたとか、
手話で歌を上手に歌えたとか、
そんなことで喜んでいるようであれば、聴者は哀れである。
数ヶ月学んでいて、
やっとそういうことがひしひしと感じられるようになった。
それだけでも感謝であり、収穫なのかもしれない。
少しでも続けていこうとなると、
それまで見えなかったものが見えてくるようになる。
目が開かれていく、とでも言おうか。
それは、
これが異文化理解だということに気づくということだ。
ろう者は、どうかすると厚かましく見えることがあるようだ。
自己主張が激しいとか、遠慮を知らないとか。
先日の、裁判所で手話通訳者を付けてもらえなかった女性が、
裁判所を出るときに、裁判所のことを「嫌いになった」と
いわばずけずけと知らせた点も、
人によっては、図々しい態度だと見えたかもしれない。
私も偉そうに、
その背景がどうだなどと述べる資格はない。
ただ事実として、
そういう、言わねばならぬことはその場で言う、というのは
ろう者に比較的当然と見られている態度である点は、分かる。
考え方や捉え方が、かなりストレートで、はっきりしているのだ。
その点、よい比較かどうか知れないが、
アメリカ人がずばずば自分の意見を言うとか、
韓国人が自分の主張が強いとか、
そういうのとむしろ近いように感じるのだ。
同じ日本語だから、
日本語を手話に置き換えていけば伝わるのだ、
そんな甘い態度が幻想であることが、分かってきた。
それはやはり、
日本語を英語に置き換えれば伝わる、と
安易に考えてだんだん英語が分からなくなっていった
昔の私と同様なものであろうかと思う。
つまり、言葉や表現だけで十分伝わるということはありえない。
違う考え方、違う発想、要するに異文化を理解しようとすべきなのだ。
相手はどういう立場や背景からそう言っているのか、
それを違う文化の自分はどう受け取ればよいのか、
そんなことを絡ませながら、
コミュニケーションがなされていくというのが実情なのである。
それを、英語でハンバーガーが買えた、などと言って
無邪気に喜んでいる英語学習者が空しいように、
手話でろう者と話ができたとか、
手話で歌を上手に歌えたとか、
そんなことで喜んでいるようであれば、聴者は哀れである。
数ヶ月学んでいて、
やっとそういうことがひしひしと感じられるようになった。
それだけでも感謝であり、収穫なのかもしれない。