先日、亡くなった方がいる。
以前の教会に通っておられた方である。
視力において不自由さをもっておられた。
教会に点字の聖書や讃美歌があるが、
それはこの方のためにあったようなものであった。
 
男性である。
いろいろ兄弟の間にも問題があったが、
そのことについても祈ってほしいと求めておられた。
自分のためには、祈ってほしいとあまり仰らなかった。
 
聖書には、盲人の目をひらく話がたくさんある。
心のうちでは、そのような奇蹟が
自分の上に起こるのではないか、という気はしなかっただろうか。
これは、傍から見る、失礼な見方ではある。
 
いろいろな教会に顔を出しておられた。
それで、洗礼を受けるということもなく長く求めておられたが、
ついに私の目の前で、洗礼を受けた。
おそらく心の中ではすでに信じておられたのだろうが、
一歩踏み出す時だと感じられたのではないだろうか。
 
私がその教会を離れて後、
この方の名前を久しぶりに聞いたとき、
それは病気の知らせであった。
それも、急激に悪くなったということで、
以前のからだつきからすれば想像もつかないほどに痩せておられるという。
 
そうして、昏睡が続く中、
静かに天に召されていったという。
主日であったから、礼拝の思いの中で旅立たれたのかもしれない。
 
もし目が見えたなら、
おそらくもっと早期に気づいたであろうと思われた。
それが、見えないばかりに、気づくのが遅れたのだと推測される。
家族でも、トイレの中までは見てやることができないだろう。
 
視力にしろ、聴力にしろ、
生活上の不自由や危険というのもさることながら、
自分の体調の悪化やその兆候について、
気づく機会を失うということがあるものだ。
これは、実に悔しい気がする。
 
少しでも、よろしくない楊子か見られたら、
周囲の者が、強く受診を勧めるというふうでありたい。
それでも、遅すぎるということが少なくないであろう。
愛されていること、人に関心をもたれていることは、
その人の命のためにも必要なことなのではないだろうか。
 
目の不自由な人は、ラジオをよく聴く。
あるいは、聴力感覚に優れている場合が多い。
辻井伸行さんのテレビ番組も先日見た。
音楽関係者は奇蹟だと述べていた。
 
あの方も、ラジオに投書をよくしていらした。
そして、駄洒落が得意だった。
新垣勉先生もそうだが、
言葉を楽しむ駄洒落は、明るく考えていく秘訣であったのかもしれない。
 
命のない自称牧師の説教ばかり聴いておらず、
自らいろいろな牧師やラジオから
聖書に触れていたとすれば、
死後の心配は要らないのであるが、
それにしても、病気の兆候に気づけなかったという事態は、
やはり悔しい思いがのこるものである。