青田刈りのニュースに関連しないわけではないが、
その推薦入試、
基本的には、中学での何か実績や
とにかく成績というのがものをいう。
そのための、自薦の文書がどうしても必要になる。
これを、塾の教師に相談しに来る生徒が多い。
それだけ信用してくれるのはありがたい。
私にも、見て欲しい、と何人かやってきた。
冬期講習の最終日など、
夕方には授業の終わった中三生が、
ついに夜10時まで残って書き続けたのである。
この場合、学校の成績がよい生徒である。
勉強が、できる。
だが、言わせてもらうが、文章が下手である。
下手だというのは、美文でない、などという意味ではない。
私だって、偉そうなことを言える者ではないのだが、
とにかく自己アピールができない。
いや、そもそも文章を書くということを、
殆どしたことがないようでさえあるのだ。
もちろん、読書感想文はあるだろう。
宿題で仕方なく文章を、という経験がないわけではない。
しかし、こうして自分の考えを書く、というのが、
とてつもなくできないのである。
読む人がスムーズに読みやすいように、
時間順、あるいはテーマ順に説明していく、という
基礎の基礎さえ、ままならないのを見ると、
鉄棒をしたことの無い人に、
大車輪をやれと命ずるような気分になってくる。
近年、独自の教育を主張する人の中に、
作文指導を重んじる方がいらっしゃることを知っている。
それは慧眼である。
しばしば、自分の言いたいことばかり言う子どものことが問題となる。
人の話をまともに聞けない子どもの例も数多い。
しかし、このことと、自分を表現できないということは、表裏一体なのではないか。
言いたいことばかり言い立てるのは、
自分を整然と表現できない故である。
人の話を聞けないのは、
自分を成立させられていない故である。
ディベートを行うと、
自分の考えを表明できるようになる、ともいう。
欧米のスタイルだと、
これがよく訓練されるのかもしれない。
そのうえ、さらに危機を感じるのは、
たとえ表現できるようになっても、
表現する内容をもたないのではないか、という懸念においてである。
個を発現することを盛んに行うのが、
戦後民主主義の誤った教育だ、などと鬼の首を取ったように言う輩がいるが、
実は個など発現していないのではないか。
互いに他人の動きを見ながら牽制し、
時に自分が弱者の立場と自覚し、なおかつ相手が自分に逆らえないと確信したときに、
論理も客観視もなく、キレることがある程度である。
そのとき、自分は神になっている。
作文は、いいことだと思う。
ごくたまに、その方面に才能を発揮する人はいて、
若くして文学賞をとるなど活躍する。
ただ、商業ベースに乗ってもてはやされるというケースも少なくないので、
本当に才能なのかどうか、該当者は自問する方がよいかもしれない。
ただ、一部に文章に長けた人がいるのは確かである。
他方で、あまりにも文章にならない成績上位者が目立つことに、
何か歪みのようなものを感じる次第である。
その推薦入試、
基本的には、中学での何か実績や
とにかく成績というのがものをいう。
そのための、自薦の文書がどうしても必要になる。
これを、塾の教師に相談しに来る生徒が多い。
それだけ信用してくれるのはありがたい。
私にも、見て欲しい、と何人かやってきた。
冬期講習の最終日など、
夕方には授業の終わった中三生が、
ついに夜10時まで残って書き続けたのである。
この場合、学校の成績がよい生徒である。
勉強が、できる。
だが、言わせてもらうが、文章が下手である。
下手だというのは、美文でない、などという意味ではない。
私だって、偉そうなことを言える者ではないのだが、
とにかく自己アピールができない。
いや、そもそも文章を書くということを、
殆どしたことがないようでさえあるのだ。
もちろん、読書感想文はあるだろう。
宿題で仕方なく文章を、という経験がないわけではない。
しかし、こうして自分の考えを書く、というのが、
とてつもなくできないのである。
読む人がスムーズに読みやすいように、
時間順、あるいはテーマ順に説明していく、という
基礎の基礎さえ、ままならないのを見ると、
鉄棒をしたことの無い人に、
大車輪をやれと命ずるような気分になってくる。
近年、独自の教育を主張する人の中に、
作文指導を重んじる方がいらっしゃることを知っている。
それは慧眼である。
しばしば、自分の言いたいことばかり言う子どものことが問題となる。
人の話をまともに聞けない子どもの例も数多い。
しかし、このことと、自分を表現できないということは、表裏一体なのではないか。
言いたいことばかり言い立てるのは、
自分を整然と表現できない故である。
人の話を聞けないのは、
自分を成立させられていない故である。
ディベートを行うと、
自分の考えを表明できるようになる、ともいう。
欧米のスタイルだと、
これがよく訓練されるのかもしれない。
そのうえ、さらに危機を感じるのは、
たとえ表現できるようになっても、
表現する内容をもたないのではないか、という懸念においてである。
個を発現することを盛んに行うのが、
戦後民主主義の誤った教育だ、などと鬼の首を取ったように言う輩がいるが、
実は個など発現していないのではないか。
互いに他人の動きを見ながら牽制し、
時に自分が弱者の立場と自覚し、なおかつ相手が自分に逆らえないと確信したときに、
論理も客観視もなく、キレることがある程度である。
そのとき、自分は神になっている。
作文は、いいことだと思う。
ごくたまに、その方面に才能を発揮する人はいて、
若くして文学賞をとるなど活躍する。
ただ、商業ベースに乗ってもてはやされるというケースも少なくないので、
本当に才能なのかどうか、該当者は自問する方がよいかもしれない。
ただ、一部に文章に長けた人がいるのは確かである。
他方で、あまりにも文章にならない成績上位者が目立つことに、
何か歪みのようなものを感じる次第である。