「おなじものが、とおくになると、ちいさくみえるのは、なぜ?」
六歳のわが子が、私に質問してきた。
これは、実に単純な公理のようなもので、
どう説明すればよいか、難しい。
アポステリオリな理由を根拠に置くわけにはゆかないので、
はたと困る。
ところが、「因」なるものには2種類あって、
存在の「因」からすれば先行的な理由しかありえないのだが、
目的の「因」からすれば、いわば未来のことを理由とすることができる。
あるいは、認識者たる人間の心理的「因」を根拠とすれば、
主観の傾向性などを踏まえて、
もしかすると如何様にも説明ができるのかもしれない。
おふろの中で急に質問してきたので、
こちらも逃げ場がない。
私はある説明を施したのだが、果たして自信がない。
どうだろうかと怖々尋ねると、
「わかりやすかった」との返事がきた。
すぐさまきた。
ドキドキする時間は短くて済んだ。
誰もが当たり前だと信じて疑わないことに対して、
改めて問いを立てる。
これが哲学的思考の基本だとも言える。
おそらく、その基本的問いに答えることが、一番難しい。
信仰の場合、自分の立てる問いと
聖書あるいは神からの答えとが、
基本的なところで曖昧であってはならないだろう。
あるいは、そこでなあなあになってはならないだろう。
六歳のわが子が、私に質問してきた。
これは、実に単純な公理のようなもので、
どう説明すればよいか、難しい。
アポステリオリな理由を根拠に置くわけにはゆかないので、
はたと困る。
ところが、「因」なるものには2種類あって、
存在の「因」からすれば先行的な理由しかありえないのだが、
目的の「因」からすれば、いわば未来のことを理由とすることができる。
あるいは、認識者たる人間の心理的「因」を根拠とすれば、
主観の傾向性などを踏まえて、
もしかすると如何様にも説明ができるのかもしれない。
おふろの中で急に質問してきたので、
こちらも逃げ場がない。
私はある説明を施したのだが、果たして自信がない。
どうだろうかと怖々尋ねると、
「わかりやすかった」との返事がきた。
すぐさまきた。
ドキドキする時間は短くて済んだ。
誰もが当たり前だと信じて疑わないことに対して、
改めて問いを立てる。
これが哲学的思考の基本だとも言える。
おそらく、その基本的問いに答えることが、一番難しい。
信仰の場合、自分の立てる問いと
聖書あるいは神からの答えとが、
基本的なところで曖昧であってはならないだろう。
あるいは、そこでなあなあになってはならないだろう。